第9回(1993)
1993年
11 /11 木
会場:国立京都国際会館
第9回(1993) 京都賞受賞者
講演テーマ
エンジニアリングの面白さ
講演要旨
今日、私達の生きる近代社会は、ほとんど全てがテクノロジーに依存しています。この依存に対する認識から、マンフォードやエルルなどの作家は、テクノロジーが暴走してしまっており、これを、抑制するための措置がとられなければならないと指摘しています。 しかし、そのような作家達も、過去の進歩の多くを快く受け入れています。彼らは、自動車に乗ったり、飛行機で飛んだりすることは厭わない一方で、テクノロジーがひとりでに生命や勢いを持つようになり、それが好ましくない方向、あるいは危険な方向にさえ向かうかもしれないと感じているのです。その影響で、科学やテクノロジーを職業に選ぼうとする若い人の数が減っています。 私は、現在エンジニアリングを志す若い人達も、この分野に入ることでエキサイティングでやりがいのある仕事と出会うことができるだろうと確信しており、私自身の経験を例として挙げたいと思います。 私は、特に物造りではあまり知られた地域でないカンザス州西部の小さな町で育ち、中西部の比較的良いとされる大学の一つに通い、1947年に卒業しました。 エレクトロニクス産業に入るには、エキサイティングな時期であり、新しいエレクトロニクス製品が次々と発表されていました。その年トランジスタが発明され、これは、この分野を全く変えてしまう開発でした。その結果、エレクトロニクス分野は急速に拡大し始め、今日にまで至っています。 若いエンジニアとして、私は、重要なプロジェクトに貢献するチャンスを与えられました。もちろん、この中で最も重要だったのは、米国内だけでなく、日本や世界中で750億ドルの産業にまで育った集積回路でした。 これによって、私は非常に満足出来る成果を手に入れることができました。私の存在は小さなものであっても、私は進歩を目の当たりにできたのです。 生涯の仕事を探している若い人達に、私はエンジニアリングを心よりお薦めします。
講演テーマ
ショーハムとダウンの間—自然の美への鍵を求めて
講演要旨
人生を科学へ傾けることになったのは、持って生まれたものと、両親の影響によるものです。 私自身はロンドン近郊で育ちましたが、両親はニュージーランドからの引き揚げ者で、父はエンジニア、母は医者でした。二人とも私たち大家族が開拓者のように自給自足するという信念を持っており、これは私たちが住んでいたロンドン近郊の中流階級の環境では、かなり変わった気風でした。 両親は自分達の考えを、子供達の躾と、外部のサービス、修理や買い物に頑固なまでに頼らないということで実践していました。私の子供時代の家は、郊外地域の端にあって、大きな庭があり森や野原に近く、自然の情景や生物に対する私の生来の興味へと結びついていきました。子供の頃の私は、内向的であまり社会的ではなく、客観的に考える性格で、それが科学者になった重要な原因だったと思います。美しさ、望ましくは自然の美しさを感じる気持ちが、科学者の研究の方向と深さを決定する上で常に重要であると私は主張します。 父から、私は道具の使い方、物の設計や作り方、そして興味をそそるけれども、それでいて決まりに縛られない数学の考え方を教わりました。父の空間的、数学的、そして何とかして物事を可能にしてしまうという才能を見習ったことは、後の私の研究の理論展開に非常に価値のあるものでした。 父は工学的アイデアを示すために実際的に模型を作りましたが、後に父は理論的に模型を作りました。父の模型と同様私の模型は間に合わせで素人の仕事ですが、父との同様に実際に機能し、他の方法では理解できなかった結果を出しています。 母からは、自然史、生物学、美的感性を教わりました。特に、幼い時から自然淘汰による進化の理論を母から学び、その考えを理解した時から、進化はより一層私の興味を引くようになりました。
講演テーマ
私の人生と音楽
講演要旨
主催者の方々のご希望にお応えして、私の人生と仕事についてお話します。 私は地主の家に1913年1月25日に生まれました。1915年に家族はロシアへ移り、そこで父はボルシェビキ派に処刑され、1918年に私たちはポーランドに戻りました。 私は6歳からピアノのレッスンを始めました。11歳の時シマノフスキの第三交響曲を聞きましたが、それはまさに啓示でした。14歳でリムスキー・コルサコフの弟子であったヴィトルト・マリゼフスキのもとで作曲の勉強を始めました。マリゼフスキは、私が軍での任務を終えた後にやっと完成した交響変奏曲を、「現代的すぎる」として認めませんでした。ワルシャワ音楽院では、ピアノ(1936年)と作曲(1937年)の修了証書を取得しました。1939年に私は軍のラジオ局で指揮官として戦役に就きました。ドイツによる占領期間(1939年から1945年まで)は、いくつかのカフェで演奏しながら、ワルシャワで過ごしました。1945年にソビエト軍がポーランドに侵入し、ポーランドは40年以上も彼らの支配下におかれました。 1948年、私の第一交響曲の初めての演奏が行われました。私は、いくつかの「機能音楽」(学校やラジオのための)も作曲しました。それは、荒廃した文化生活に対する強いニーズに応えるためでした。私は「音言語」のための作業も開始しました。1949年から1955年までの間は、伝統的な音楽のみが演奏された極めて失望させられる日々でしたが、1956年からは現代音楽フェスティバルが毎年開催されることになりました。英国で私の出版を許可されたのは、なんと1966年になってからで、私の作品が国外で演奏され知られるようになったのは、それから後のことでした。1963年のヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアでのコンサートにおいて、公の場で初めて自分の作品の指揮が出来るようになりました。 講演の中では、まだオペラを作曲したことがない理由を説明したいと思います。また、自分が誰のために作曲をするのかという大切な問題についても論じます。これは、創造的な芸術家の倫理に関することです。創造的な芸術家の作品は、彼らが信ずるもの、彼らの芸術的な信念の真の表現と両立するものでなければなりません。「理想的な世界」が創造的な芸術家の作品の目的です。ヨーロッパの中でも私たちの地域における政治的な変化は、私の人生と心に多大な影響を与えています。