第8回(1992)
1992年
11 /11 水
会場:国立京都国際会館
第8回(1992) 京都賞受賞者
講演テーマ
コンピューターエンジニアへの道
講演要旨
私は1934年に学士号を取得した。その後、キャベンディッシュ研究所に研究生として入り、電離層における電波の伝搬に関する研究を行った。1937年、ケンブリッジ大学は卓上計算機と最新のアナログ・コンピュータを設置する目的で、コンピュータ研究所の設立を決定し、私はこの設立に携わったが、開設を前にして第二次世界大戦が勃発、出征した。帰還後の1945年、私は同研究所の所長に就任した。1946年晩夏、フィラデルフィアに赴いた私は、プレスパー・エッカート博士とジョン・モークリー博士の下で、プログラム記憶式デジタル・コンピュータという新テーマに関して、当時学べることは全て学んだ。当時はまだ、プログラム記憶式コンピュータは開発されていなかった。 ケンブリッジに戻った私は、EDSACとして知られるコンピュータ開発のためのプロジェクトを発足した。講演では、この種のコンピュータがまだ開発されていない時代に、プログラム記憶式コンピュータを開発するという任務を前にしたベテランの電子技術者の様子についても語ってみたい。 1949年、EDSACは作動し、研究チームはプログラミング方法の開発や、可能な限り多岐にわたる科学的分野を対象にしたコンピュータ・アプリケーションの開発に重点を移し、1951年、私はD・J・ウィラー氏、S・キル氏と共著で、コンピュータのプログラミングに関する最初の本を出版した。 講演では、マイクロプログラミングの起源についても少し触れている他、ケンブリッジのコンピュータ研究所におけるその後の研究開発についても述べる。 研究の道に踏み出したばかりの若い人達に対して、短いアドバイスを求められたが、人間の一生の間に世界は大きく変わるため、アドバイスとして言えることはあまりない。若い人にとっては、先輩の言わんとしていることに注意深く耳を傾けることも大切であるが、その意見が今日の状況にそぐわないということがよく解るかも知れない。
講演テーマ
科学における出会い
講演要旨
科学を志す者がその生涯をかけて描いてゆくストーリーには、数々の自然との出合い、人との出会いが織り成していて、そこには幾十年の風雪と共に、喜びと悲しみが秘められているのが常である。ことに生命現象を対象とする自然科学の場合、それが動きのない物質学ではなく、また単に一研究者の視覚に入るほど簡単ではないので、自然から教わると同様に、人から学ぶことが甚だしく大きな意味を持っている。 今日、「情報」という言葉を耳にすることがしばしばあるが、生命科学の領域でも「情報」に係わる研究が多くなった。ヒトの「からだ」を構成する細胞の数は50兆にも達するといわれていて、これらの膨大な数の細胞に共通する基本的な仕組みを追い続けた生命科学は、今では細胞間の絶妙な連繋プレーの失調や異常が記憶障害、がん、心臓病など、日常身辺にみる病気の成因となり、その解明が治療や予防に繋がっているからである。脳の働きと手足の運動、心臓の拍動と血圧調節など、細胞同士の見事な統制のとれた共同作業が営まれるには、数々のホルモンや神経伝達物質などの生理活性物質(情報物質)が、いわば潤滑油として働いている。こうした細胞間の連携プレーの仕組みの解明には、数え切れない程の多くの研究者達の思いが寄せられている。 私共の研究は、国の内外、広い世界での数々の科学者との「出合い」によって支えられている。これまでの歩みと未来への展望について、話題が提供できれば無上の幸せである。
講演テーマ
気がついたら哲学者
講演要旨
私はこの講演の中で、私自身の教育とその後の学究的な生活について、順を追って説明していきたい。また、これに合わせて、私の成長に様々な影響を及ぼした書物や博識な知人との交流についても述べたい。 職業を選ぶに当たって、小学校の教師になろうと決心したが、後に中学校の教師になろうと考え直し、そのために、ウィーン大学で数学と物理学を専攻することになった。 私は哲学上の問題にも大いに興味をそそられたが、自分でそうした問題を解決できるなどとは思ってもみなかった。ダーウィンの進化論をはじめとする物理学上の問題の方にはるかに大きな関心を持っていたのである。教師になった後、現在のいわゆる科学哲学をテーマに扱った『The Logic of Scientific Discovery(科学的発見の論理)』を出版したのであるが、ヒットラーの侵攻で海外移住を考えなければならなくなった時に、この本のおかげで、それまでは夢にも思わなかった大学での研究の道が開けることになった。 私が科学の方法論の道に進んだきっかけは、マルクス主義を批判しようという試みからで、1919年の秋のことであった。社会主義または共産主義は「資本主義」を必ず打破しなければならないというマルクス理論の科学的地位に対する主張を分析しようという試みの中で、私は真の科学と疑似科学とを区別する基準は何かを自問することになった。このマルクス主義批判は、25年後に『The Open Society and its Enemies(開かれた社会とその敵)』という本となって実を結ぶことになるが、科学の方法論における問題は、私自身の哲学の中心的問題となり、結果として、他の多くの有益な問題へと導いてくれたのである。