第31回(2015)
2015年
11 /11 水
会場:国立京都国際会館
第31回(2015) 京都賞受賞者
講演テーマ
私の歩んだ道—研究に魅せられて
講演要旨
私は平凡な子供時代を過ごしました。両親は福岡県久留米市で食料品店を営んでいました。父親は教育熱心で、私が机に向かっているとなにも云いませんでしたが、遊ぼうとするとすぐに家の手伝いを命じました。小学生から中学生にかけても、机に向かうことを家の手伝いから逃げる言い訳としていた記憶があります。好奇心が強く天邪鬼の傾向のある子供でした。中学生の頃より、読書に夢中になりました。両親の目を盗んで手当たり次第冒険小説などを読みふけっていました。 高校3年になり大学進学が差し迫るまで、どのような分野に進むのか真剣に考えていませんでした。父親は堅い職業と見て私が薬剤師になることを望みましたが、私は気が進まず工学部の応用化学への進学で折り合いました。大学4年の卒業研究で、初めて研究の現場に身を置きました。仮説を立てて実験する、その通りにならないと新しい仮説を立てて試みる、この繰り返しです。この謎解きの面白さに引き込まれてしまい、研究開発を一生の仕事にしたいと心に決めました。 九州大学で修士課程を終えた後いくつかの事情が重なりフルブライト留学生として米国のペンシルバニア大学の博士課程で勉強しました。日米の生活格差が大きかった1960年のことです。さらに西海岸のカリフォルニア工科大で博士研究員を務めてから、九州大学工学部合成化学科のメンバーとなりました。それ以来1999年に定年で辞めるまで36年間同じ場所で過ごしました。 九州大学での学生時代の研究分野は新しいプラスチック材料の合成でした。石油化学の発展で、新しいプラスチックが次々に開発されていた時代です。助教授時代、この合成は引き続き大事な研究テーマでしたが、生物の体内で起こっている絶妙な化学にも関心がありました。二つの分野が交わるテーマとして研究したのが酵素モデルでした。その延長として合成二分子膜の研究が生まれ、分子組織化学へと広がっていきました。
講演テーマ
太陽系外惑星—人類古来の夢から現代科学の対象へ
講演要旨
宇宙は無限である。(中略)原子の数が無限なだけでなく、宇宙に存在する世界の数もまた無限である。我々のものに似た世界が数知れず存在し、それと異なる世界も無数にあるのだ。(エピクロス、紀元前341年-紀元前270年) 「世界は複数存在するのか」という問いは、2000年の間、哲学の世界で論じられるものでした。人類の古くからの夢ともいえるこの問いを、観測装置の進歩が現実の問いに変え、宇宙物理学の中でも非常に活発な学問分野を生んだのです。この科学的探究の一部を担える私たち研究者は、非常に恵まれていると思います。 研究は人によってなされるものです。講演会では、私が太陽系外惑星51 Pegasi bを発見するまでの道のりと、研究仲間の極めて重要な貢献についてお話しします。装置開発や発見というものは、一人の力で成し得るものではないのです。 過去20年間の研究成果を皆様と共有し、現在および今後の研究について論じることができれば幸甚です。
講演テーマ
ダンス—感情に生きたかたちを与える
講演要旨
記念講演会では、ダンスという芸術に対する私自身の考え、すなわち、感情に生きたかたちを与えるものとしてのダンスについて、バレエ・ダンサー、振付家、芸術家としての私の成長をもたらしてくれた今までの道のりや舞台、出来事や経験を振り返りながら、お話ししたいと思います。幼い頃から思春期にかけての様々な出来事(早くにデッサンや絵画の才能に気づく一方で、バレエの舞台に言いようのない魅力を感じ、自らの体の動きで感情を表現したいという抗しがたい衝動に駆られていたこと)を織り交ぜながら、こうした様々な経験が紡ぎ合わされ、振付家、バレエ団監督を生業とすることになった経緯についてお話しします。 幼い頃、ウィスコンシン州ミルウォーキーで私が受けた数々の教育(様々な形式のグラフィックアートや、小さなバレエ学校でのレッスンなど)には、最初、何のつながりもありませんでした。しかし、こうした学習が、後に天職を追求する中、一見全く異なる芸術形式を一つに統合するうえで必要な知識と技術の確固たる基盤を与えてくれたのです。もともと私には、人間の置かれた状況を舞台の上で表現したいという本能的な衝動がありました。やがて、ミルウォーキーのマーケット大学で、英文学と演劇学を学ぶことになり、そこで教えを受けたイエズス会神父の指導により、私はこの特異な道を歩むことになりました。それは、絵を描く技術、文学的素養、精神的信念、ダンス技法が組み合わされた振り付けというもの、すなわち、時間と空間において人間の体の動きをデザインすることです。 最初の頃、バレエ・ダンサーとして研鑽に励む間は、私の創作への衝動は封印されていました。ところが、シュツットガルト・バレエ団でソリストになって間もなく、振り付けをしたいという気持ちを改めて認識したのです。ほどなくして、バレエ作品を創作することに加え、ドイツのフランクフルトで自らダンサーを率いて監督を務めるという思いがけないチャンスに恵まれたことにより、それまでの知識と経験を融合させた実験的試みが行えるようになりました。自分ならではのレパートリーを創造する自由を得たこと、また選りすぐりのダンサーたちを訓練し、身体の動きやデザイン、文学性、さらには人間のあり方に対する認識と個人的な憂慮関心を組み合わせることを通じて、独自の芸術哲学が育まれていきました。自分自身のバレエの出来如何ではなく、バレエ作品の創作が私にとって最大の関心事になりました。それは、内なる感情に呼び覚まされ、学んだテクニックを修練することで自然に創り出される身体の動きが、心の奥底に潜む感情を表出する瞬間なのです。構成された、すなわち「振り付けされた」人間の動きにおいて、肉体が精神に形を与え、それがその動きを目の当たりにした人々に伝わることで、観客は自らの内に分け持つもの―私たちに共通する人間性―を認識するのです。 ハンブルク・バレエ団での長年にわたる創作活動では、数々の教育、実験的試み、人生経験がさらに織り合わされ、絶えず発展してきました。人を感動させる肉体の動きを創り出すことによって、ダンスは人間の感情に生きたかたちを与え続けるのです。