第30回(2014)
2014年
11 /11 火
会場:国立京都国際会館
第30回(2014) 京都賞受賞者
講演テーマ
ある若き化学工学者の夢と奮闘
講演要旨
私は、米国ニューヨーク州の州都オールバニで育ちました。初めて化学に魅せられたのは、化学実験セットをプレゼントされた11歳のときです。色の変化を起こす化学反応をさせてみたり、ゴムやその他の材料を作ったりして楽しみました。大学と大学院では化学工学を専攻しました。大学院を修了すると、クラスメートの大半は石油業界に就職していきました。しかし私には、高給ではあってもそうした仕事は魅力的に感じられませんでした。私は健康・教育を向上させる仕事について人々の役に立ちたいと思っていたのです。そこで、私は大学での教育や医学部で健康関連の研究を行う職に応募しましたが、雇ってくれるところはありませんでした。ようやく、有名な外科医のジュダ・フォークマン先生がボストン小児病院で採用してくださいました。結局、その病院では研究を行うエンジニアとしては私が唯一の存在でした。そして、工学を医療に応用する方法についていくつもの着想が得られたのです。小児病院での任期が終わって大学で教員職を得ようとしましたが、私は工学の研究をしていないと思われ、工学部では採用されませんでした。最終的にマサチューセッツ工科大学(MIT)の栄養食品科学科で採用が決まりましたが、最初のうち事態は最悪でした。私の初期の発見(高分子科学の分野の発見と血管新生を停止させる方法)は、従来からある見解と相反するものであったため、多くの科学者から間違いであると言われ、最初の9件の研究助成金申請もすべて却下され、長老格の教授2人からは大学を辞して別の職を探すように迫られました。しかし、私は諦めませんでした。その結果、数多くの科学者や企業が私の研究成果を利用し始め、研究助成金も得られるようになりました。現在では、私たちの開発したコンセプトの多くが、人々の生活を向上させたり生命を救ったりする製品へと繋がっています。このように、挑戦と挫折の人生を通して私の人生観は確立されていきました。すなわち、世の中を変えられるような大きな夢を描くこと、そして、行く手に障害が立ち塞がろうとも、その夢を決して諦めないということです。
講演テーマ
物理と数学を巡る冒険
講演要旨
私は幼いころから天文学に興味がありました。とはいえ、特別変わった子供であったわけではありません。私が育った1950年代は誰もが宇宙に関心を持っていたのですから。私は小型の望遠鏡を持っていて、土星の環を捉えては有頂天になっていました。今にして思えば、もう少し腕を磨いて、土星やその他の星など簡単に望遠鏡で見つけられるようになっておけばよかったのですが。11歳ごろになると、数学に強い興味がわき、数年間その情熱を燃やし続けました。 しかし、私が選んだ科学者になるという道は紆余曲折に満ちたものでした。数学よりも理論物理を目指そうと決めた(21歳の)時にしても、どちらの分野についてもおよそ乏しい理解しか持ち合わせていませんでした。私は素粒子に魅せられました。20年間にわたって、粒子加速器からは目覚ましい成果が驚異的なペースで産み出されていました。それが最高潮に達した一つの瞬間は、私が大学院の2年目に進んで間もない頃にあった、ジェイプサイ中間子の発見(1974年11月11日に発表)でした。 もしも粒子加速器がそのようなペースで驚くべき発見を続けていたなら、私は、そこで発見されたものを分析する専門家を目指したかもしれません。しかし、当時のその分野の人のほとんど誰もが予想しなかった変化が起こりました。1974年以降、加速器は素粒子の標準模型の正しさを確認するように使われるようになりました。標準模型は、その創案者が予測できたものよりはるかに優れたものでした。その後、標準模型をより良く理解するための新たな気運が高まりました。弦理論でそれを越えようとする試みや、現代の理論物理学の手法を現代数学の概念に関連付けようとする動きです。この新しい機会が私の研究活動の中心テーマになりました。 私が研究人生から学んだことの一つは、自分がしたいと思っていることに対して凝り固まった思い込みを持ちすぎては、研究を進めることはできないということです。湧き上がるチャンスを受け止めなければなりません。ある問題はその時点では困難にすぎることもあります。問いの立て方そのものがあまり適切ではないこともありえます。人生は無数の驚きを秘めています。最高の研究をするためには、新しい発想や疑問をオープンに受け入れる姿勢をもち続けるようにしなければなりません。これは言うは易きで、特に年齢を重ねるほどに実行が難しいものです。しかし、このオープンな姿勢を維持する努力をしなければならないのです。
講演テーマ
光、生命(いのち)、色
講演要旨
1.生い立ち 大正13年9月30日、父 小野元澄、母 小野豊の次女として生まれる。2歳の時、父の弟、叔父である志村哲のもとへ養女とし てもらわれる。東京吉祥寺に住む。その事に関してはただ随縁という思いで、ありのままを受け入れている。養父母に対しては言葉に尽くせぬ感謝の念を一日も 忘れることができない。養父(日本郵船勤務)の転任に伴い、上海、青島、長崎、神戸と女学校を転々としたが、それは豊かな思い出として残っている。 2.人生の転機 17歳の時、初めて自分の出生を知り、人生が一変する。生みの親である両親と姉兄妹を一挙に得て、戸惑いの中にも測り知れない喜びを感じた。と同時に養父母に対しての複雑な気持ちに悩むこともあったが生まれてはじめて目の前に芸術の世界が開かれたことに圧倒された。 3.芸術への目覚め は じめて出生の秘密を打ち明けられた年に次兄凌が亡くなり、母の機をはじめて見て、強く心ひかれた。慕わしい兄を失い機にめぐり会う。長兄元衞は絵画の道を 志し、激しく燃えるような朱色で佛や教会を描いていた。当時、兄も私も西村伊作の文化学院で芸術教育を受け、西村は反戦を唱え投獄、学校は閉鎖となった。 その時期、強烈な印象を受ける。 4.自立 30歳のはじめ、2人の子供をかかえて離婚する。柳宗悦のすすめで織物を志す。兄が29歳で亡くなり、その遺志を継いでいきたいと願った。 5.日本的色彩及びゲーテ、シュタイナーの色彩論 植物より無量の色彩を得る事を知った時、自然界の仕組、宇宙の働きなどを想像し、仕事の世界が広がった。日本古来の色彩はすでに万葉集、古今集、源氏物語など和歌や物語の世界に表現されていることを自覚した。それと同時にゲーテやシュタイナーの色彩論に出会い開眼した。 6.新しい教育 量 的にすべてを考える現代社会の発展の影にあって、質の問題を深く考える教育が大事であることに思い至り、「私の仕事」から一歩踏み出して、次の世代の若者 へ伝えたいという念願を抱き、娘、孫、弟子達と心を合わせて学校を設立した。今の学校教育では教えていない自然との共生、人間の魂、感覚の目覚めを若者へ 伝えたいと切に願っている。