第24回(2008)
2008年
11 /11 火
会場:国立京都国際会館
第24回(2008) 京都賞受賞者
講演テーマ
アルゴリズムのパワーと限界
講演要旨
両親の献身的な努力のおかげで、三人の弟妹と私は良い教育を受けさせてもらいました。数学との出会いは私にとって「初恋」のようなものでしたが、なかでもアルゴリズムには夢中になりました。アルゴリズムとは、計算問題を解くための段階的な手順のようなものです。皆さんが昔、学校で習った算数にもアルゴリズムが用いられています。 アルゴリズムは情報技術に関するありとあらゆるアプリケーションの基礎となっています。検索エンジンを使って欲しい情報が得られるのも、インターネットで特定のアドレスにメッセージが届くのもアルゴリズムのおかげです。また、電子商取引でも、データを暗号化して個人情報を保護するためにシンプルかつエレガントなアルゴリズムが使われています。 子供の頃、私は自分で考え出したアルゴリズムを使って、四桁の掛け算の暗算を友人達に披露していました。その後、父が数学を教えていた学校の時間割を管理するアルゴリズムを開発したりもしました。 良いアルゴリズムとは、正しい結果を効率的に導き出すものでなくてはなりません。アルゴリズムの効率とは、主として必要となる計算ステップの数で評価されます。私はネットワーク内の任意の目的地に情報を送る際の最大速度の計算や、大量のデータ内で繰り返されるパターンを探し出すことなど、実際的な問題を扱う効率的なアルゴリズムを開発してきました。しかし私の研究で最も知られているのは、ある種の問題が非常に難しいため、その解を求める効率的なアルゴリズムが存在しないことを証明する、というものでしょう。「NP完全」と呼ばれるこうした問題は、ほぼ全ての分野のアプリケーションで発生します。このNP完全という現象は、数多くの分野で働く人々に、例えば物理科学がそうであるように、ある計算に内在する複雑性を支配する基本的な限界がコンピュータ科学にも存在する、という認識を与えました。 私は、自分が最も心を惹かれたテーマを追求することが図らずも社会に役立つこととなり、この時代に生まれたことを感謝しています。また、私に生きる指針を与えてくれた両親にも感謝しています。そして、これまで研究という名の冒険を共にしてくれた数多くの学生、研究仲間、そして友人たちの友情とサポートは、私にとってかけがえもなく大切なものです。
講演テーマ
生命(いのち)のメカニズムについて
講演要旨
子供の頃から私は、科学的手法を用いることによって生き物のメカニズムが解明できるという考えに強く惹かれてきました。そして、一人の生物の先生の説得力ある言葉によって、この考えが現実に可能なことなのだと感動した時のことは今でもはっきりと覚えています。人は皆、一つの細胞として生を受けるわけですから、まさに細胞は生命の基本単位と考えることができます。細胞がどのように働き、どのように進化して複雑化するのか、どのように他の細胞と連携して脳をはじめとする構造体を作るのか、そして癌などの病気に罹患した時は細胞機構の何がおかしくなるのか-こうした疑問の解明に、私は常に情熱を燃やしてきました。私が学校で初めて好きになった教科は、ラテン語やギリシャ語などの古典語でしたが、おもしろいことに、細胞挙動をつかさどるタンパク質に関する我々の研究によって、「分子言語」とも言うべきものが存在し、細胞間のコミュニケーションに用いられることが明らかになりました。タンパク質はDNAに潜在する指示を実行する機能分子で、細胞や組織の組成および挙動を制御します。また、タンパク質はほとんどの治療薬剤の標的であり、タンパク質の機能異常は病気を引き起こします。タンパク質は子供が遊ぶ積み木のような小さな塊で構成されていること、そしてその多くがタンパク質同士を繋ぐ役目を果たしていることがこれまでに分かっています。こうして構築された細胞内コミュニケーションネットワークを介して、隣の細胞との間で信号のやり取りが行われています。 生命の分子的基盤に関する理解は驚くほどの速さで進んできたため、我々は人間の生理機能や疾病についてすでに深い知識を獲得したと考えがちです。しかし私は、個々の細胞の働きや生命のメカニズムについて、まだまだわからないことが多くあると考えています。生物学の楽しさと感動は、今まさに始まりつつあります。人間はどこからきたのか、そして地球上のかくも多種多様な生物種とどのように繋がっているのかを解明することが、私たち人類にとって何よりも大切なことであると私は考えています。
講演テーマ
私に哲学の道を歩ませたもの
講演要旨
「人を哲学に駆り立てるもの、それは"thaumazein(タウマゼイン)"すなわち『世界に存在する驚き』である」とはアリストテレスの言葉ですが、ある意味でこれは正しいと言えます。最も大切な「哲学的」瞬間とは、普段は当たり前のこととして気に留めることすらしないような事象に感動し、驚愕させられる時です。 しかし、こうした「驚き」には「当惑」という別の側面があります。自分を当惑させるものに対して問いかけを始めると、何をどう問うべきなのか、そしてどうすれば答えにたどり着くことができるのかなど、分からないことがますます増えていきます。「驚き」は気分を高揚させますが、「当惑」は苦痛を伴うことがあります。この二つが一つになって、ある人をしてそれまでその存在にすら気づいていなかったような事象(他人が奇妙だと思うかもしれないこと)について深遠な問いかけをせしめるのです。 講演では、こうした「驚き」と「当惑」がいかにして私の人生に入り込み、現在の位置に私を導いたかをお話ししたいと思います。 私は、最初に歴史を研究しました。これは最善の道だったように思います。その後、政治によって人の生き様がどのように変容するか、という命題に関心を抱くようになり、政治に関わるようになりました。しかし私の中には「哲学的人間学」への関心が常に存在しており、言葉を操ることによって自分の考えを表現し、それによって自らを変えていくことのできる、この「人間」という存在についてずっと思索してきました。 学問の対象として歴史、そして政治の双方に接した私ですが、こうした学問の研究においては、私が抱いていた疑問は受け入れられず、しばしば排除されることに気づくようになりました。これは、史学や政治学では、人間の営みは単純でそうした問いかけなど入り込む余地のないものと捉えられているためです。私の研究生活の大半を、こうした単純で底が浅く、表層的な理解に異議を唱えることに捧げてきました。もう一つ、私の研究活動の原動力となったのは、実際に歩みを前に進めていくために同時代の政治課題をどう解釈すべきか、というより身近かつ実際的なものでした。 講演ではこうした話から始めて、これまで私が取り組んできた問題や、純粋の哲学というのではなく、(私の場合)社会や歴史の知識を包含したものという、私なりの哲学の理解について説明したいと考えています。また、(狭義かつ学問的な「哲学者」の定義に当てはまらない多くの思索家が実際に送っているような)「哲学的な」人生とは切り離すことのできない挫折、そして(時折訪れた)ブレークスルーの瞬間についてもお話ししたいと考えています。