第20回(2004)
2004年
11 /11 木
会場:国立京都国際会館
第20回(2004) 京都賞受賞者
講演テーマ
「なぜ?」と思う心
講演要旨
私は、長年にわたって美術、音楽、演劇から数学、科学、工学に至る様々な分野の偉大な功績から大いに学び、また美、ロマンス、理想主義に突き動かされてきました。芸術家肌で音楽好きの母と科学者の父に始まり、おそらく人並み以上に多くの人や物事から、知的恩恵を受けてきたと思います。興味深い考えに出会うと、どの分野であろうと徹底的に研究し、多様な考え方を貪欲に取り込むことで、私はパッチワーク・キルトのような知性を培ってきました。私のいくつかの大きな成果は、私の遭遇した考え方への何とも説明し難い反応に発しています。つまり、段階的進歩というより、発想の転換と考えます。 今回の講演では、私の経歴の紹介ではなく、若い頃の偶発的重大な転機のいくつかについて、手短にお話ししたいと思います。私が数ある可能性の中から1つの進路を選び、今の思考法を身に付けるきっかけとなった考え方、人、さらに環境との思いがけない出会いについての話です。 今回ご紹介する出来事は、いずれも私の心を大きく揺さ振り、また物の見方を一変させる契機となったものとして、強く印象に残っているものです。中には50年以上も昔の出来事もあるため、事実確認のために、該当する本、雑誌、映画、小物について調べることも必要になりました(この過程自体も楽しく、また、参考文献や資料の入手にはインターネットが大いに役立ちました)。 マーシャル・マクルーハン氏の最大の功績は、研究の発表を口頭で行なう場合と書面で行なう場合の、重要な違いを指摘したことです。私はその指摘を参考に、本講演の原稿を用意するにあたり、口頭発表用と記録用で若干の違いを設けました。前者では字数を少なめにして画像を多用し、後者では文章で多くの逸話を取り上げ、それぞれをより詳しく説明しています。
講演テーマ
半生をふり返って
講演要旨
八十路を越えてなお元気でいられる上に、このたび研究活動、知識、理想主義を称える京都賞をいただいたことは、この上なく光栄です。 私の世代は大恐慌の後、第二次世界大戦のさなかに成人を迎えました。大恐慌は世界規模の悲劇であり、私の家族の運命も大きく変えました。当時三十代前半であった両親は、新居を手に入れ、二人の子供にも恵まれ、生活は希望に満ちていました。ところが一夜にして職も住まいも失ったのです。両親は落胆しましたが、気持ちを切り替え、家族四人の明るい未来に目を向けました。私と妹は分不相応な物を持たないということを学びましたし、さらに、私は世界の恵まれない人々への生涯にわたる関心と同情の念を持つようになりました。 幸運にも私と妹は学校にも親にも恵まれました。両親は薄給ながら私たちにはひもじい思いをさせませんでした。私と音楽の才能に恵まれた妹にとっては粗末な我が家でしたが、勤勉、学問、道義心の大切さをしっかり植えつけられました。私は芸術に関心を抱き、文学に触発されました。学校の先生からは、ユークリッド、メンデレーエフ、ニュートンといった科学者の業績を学びました。これがきっかけとなり、やがてカリフォルニア工科大学へ進学し、幸運にも遺伝学者として初のノーベル賞受賞者となったモーガンのもとで遺伝学を研究することができたのです。 大学進学時、第二次世界大戦が勃発し、すべての人が影響を受けました。当時アメリカ海軍に所属していた私は、幸運にも大学の医学部で学ぶ機会を与えられました。そこで遺伝学と発生学に魅せられた私は、ごく自然に小児科学に関心を持つようになりました。また、科学的研究を病気の治療に活用するという考えも大変興味深いものでした。大戦後も研修を続け、特に小児科学の分野の恩師からは多くのことを学びました。やがて、髄膜炎などの難病に苦しむ子供を救いたいという思いが何よりも強くなったのです。人種、宗教、社会的地位が治療行為の障害となることはありません。小児科の研修医だった頃、初めて癌に冒された子供達に出会いました。それ以来私にとって最大の関心は彼らのような子供たちの治療にあるのです。
講演テーマ
私の哲学のルーツ—2つの概念「公共的空間と政治的公共圏」
講演要旨
本日は、私自身についてお話しするようにとのことのですので、私の研究の基本的理論の枠組みを築く生い立ちについてお話ししたいと思います。具体的には、幼年期、学齢期、青年期、そしてその後というこれまでの人生で起こった4つの出来事やチャレンジについて順にお話しします。 (1) ヒトという生物は、比較対象たる他者との交流の場、すなわち社会的空間に足を踏み入れて初めて「個人」としての性格を獲得します。自我と他我は深く結びついた相互依存関係にあるため、人の心は社会的空間の象徴的構造と内容により形成されます。理性の持つ社会性や、他者との交わりを経ずしては「個人」に成り得ない人間の脆弱性について私が意識するようになったきっかけは、幼い頃の辛い闘病体験でした。 (2) 人間の社会性に関する考察から始まった私の研究は、やがて、言語の語用論的概念および万人への等しい尊敬と関心という道徳理論の双方に対する間主観的アプローチへと発展していきました。今にして思えば、こうした考え方の背景には、就学後直面する辛い体験があります。言語障害があった私は、先生や級友とうまく話ができず、いじめや仲間はずれに合いました。 (3)、(4) 最大の衝撃的事件は、世界史的な節目となった1945年のナチス政権崩壊と続く新生ドイツの船出です。幸運にも私たちの世代はその当時道徳的に敏感な思春期を迎えていたため、過去の誤った伝統を是正し、安定した民主主義社会を築くという課題を自らの責務として認識することができました。この1945年の政治的転換は、当時だけではなく現在も学者、教育者、一般識者としての私に影響を与えています。あの経験がなければ民主主義の実現において政治的対話と合意形成が果たす役割の重要性や、生涯互いを知らない市民から成る複雑な社会を一つにまとめることのできる唯一の体制の誕生と再生に、健全な公共圏が不可欠であるということを、理解することもなかったでしょう。