第17回(2001)
2001年
11 /11 日
会場:国立京都国際会館
第17回(2001) 京都賞受賞者
講演テーマ
私の回想録
講演要旨
私は、今から百年ほど前にアメリカに移住した東欧系ユダヤ人の末裔です。私の祖先を含め、当時東欧から西欧に移り住んでいたユダヤ人の大半は、ユダヤ教原典の研究を中心とした文化を数百年にわたって継承していました。そのため、ユダヤ人のコミュニティにおいては、こうした原典を研究する学者が人々の尊敬を最も多く集めていました。19世紀に西欧で実現したユダヤ人の「解放」、ならびに1900年前後の東欧出身ユダヤ人のアメリカへの大規模な移住により、ユダヤ人の多くは新しい環境に適応することを余儀なくされ、彼らの文化は大きく変容を遂げる結果となりました。しかし、こうした変容を受け入れた後も、ユダヤ人の文化はある意味で一貫性を保ち、彼らが宗教学に対して抱いていた敬意は、医学、科学、法学などの専門分野をはじめとする世俗的な学問に対する敬意、支持へと形を変えて受け継がれていきました。 私の祖父母も、1900年頃、アメリカに向かったユダヤ人移民でした。彼らも、多くのユダヤ人の例に漏れず、民族の文化的伝統を重んじる生活を送っていました。私の両親は2人ともニューヨークで生まれました。経済的事情で大学進学を諦め、高校卒業後には就職しなければなりませんでしたが、独学でいろいろな知識を身に付けていました。私自身も、学問的研究に対して敬意を抱き、それを支持、奨励するという、ユダヤ民族の文化的遺産から多くを得ています。「人はなんらかの方法で社会に貢献することが大切である」と私が考えるようになったのも、その影響と言えるでしょう。私にとっての「社会への貢献」は、科学技術の進歩に寄与することであると考えています。子供の頃から日常生活の中に存在し、青年期には精神的な支えにもなったこうした文化的背景が、その後の私の人生行路に最も大きな影響を与えたことは間違いありません。 科学好きの父が私の関心を科学に向けようとしてくれたことや、高校時代の経験がきっかけで、私は化学を専攻しようと決心し、ニューヨーク市立大学ブルックリン校とデンバー大学で学びました。その後、ミシガン州立大学の大学院で物理に軸足を置いた研究に携わり、物理化学の博士号を取得しました。 大学院卒業後、オークリッジ国立研究所、そしてAVCO社のスタッフとして十年ほど基礎研究を行った後、私はベル研究所に迎え入れられました。同研究所における研究環境は知的刺激に溢れたものでした。科学者にとって、こうした周囲からの刺激は必ずプラスに作用するものなのです。同研究所で私が手がけた数多くの研究テーマの一つに、室温環境で連続発振動作が可能な注入レーザの開発があります。これは、林厳雄博士との共同作業という形で進められ、成功を収めることができました。この研究の成功はもとより、その他多くのプロジェクトを通じて、私は常に充実した研究生活を送ることができました。というのも、私には、人類の知的向上に貢献するようなことをしているという実感があったためです。 林博士と私が始めた、物理学者と化学者による共同作業という枠組みは、その後、半導体デバイスの研究において一般的になりました。林博士が日本に帰られてからも、私はこうした共同研究を繰り返し、その後二十年間、大変生産的に研究活動を行うことができました。 研究者として一線から退いた後も、私は、米国研究会議の依頼でNASAの科学プログラムのモニターを行う各種委員会に参加するなど、科学者としての幅を広げています。こうした名誉職は、研究者としてこれまで行ってきたものとは全く違う形で科学に貢献するものですが、大変やりがいを感じています。加えて、全米アカデミー人権委員会の委員としても忙しい毎日を送っています。
講演テーマ
半世紀の研究遍歴—応用物理を世に役立てる
講演要旨
基礎医学者の四男として1922年、東京に生まれました。生来サイエンス的思考を持っていたらしく、科学者である父の話を好んで聞き、今も印象に残っていることがたくさんあります。小、中学、高校と学習院に学び、東京大学理学部に進む頃には、第二次世界大戦の末期に近く、空襲の中で米国のレーダー測定からマイクロ波を学んだことでした。これが光との一生のつき合いのきっかけとなるのです。 それから50年、ほぼ10年ごとに内外の研究機関を転々と渡り歩きました。初めの20年は東大の原子核関係の研究所で、自分の担当した仕事は、マイクロ波と同じ原理の大きなサイクロトロン発振器でした。ここで測定用エレクトロニクスの整備などに携わる中、発達している米国のエレクトロニクスをこの目で見たいとの願望から米国行きを決意しました。この渡航は生涯における大きなジャンプになりました。米国内で2回の移籍の後、1966年、ベル研究所内でリサーチ部門のゴールト(J. K. Galt)部長と会い、半導体レーザーの研究を…という予期せぬ言葉をかけられました。ここで自分の後半生の幕が切って落とされました。 東京大学の職を辞してベル研究所の正式研究員となりました。 それまで不可能とされてきた―室温で働くレーザーができれば通信技術に絶大なインパクトを与える―とのゴールト部長の言葉に、パニッシュ(Morton B. Panish)と2人で研究をスタート。暗中模索の中、彼のつくった結晶の中から理想的なヘテロ接合を発見、これを手がかりにレーザーの室温発振を達成したのが1970年6月1日でした。 これを機に再び日本に帰ることにしてNEC研究所に籍を置き、レーザーの実用化に没頭しました。先の見えない難関に、信念を持って進むだけでした。若い研究者の執念から、ついに解決の道が開けました。長期にわたる努力によって、光通信からコンパクトディスクに至る各種の光応用装置が開発されたのです(1970年代から80年前半)。光の応用はこれで終わりか否、本命はこれからです。光と電子の融合的複合装置として発展すると信じます。
講演テーマ
私の人生とヘテロ構造の物語
講演要旨
私が物理に興味を抱くようになったのは、ある物理の先生との出会いがきっかけでした。その先生の薦めもあって、私はレニングラード電気技術大学の電子工学部に進み、半導体物理や半導体デバイスの研究を始めました。1953年、ヨッフェ物理技術研究所に研究員として迎えられて以来、今日に至るまで、私は現代物理学のみならず現代の科学技術で最も刺激的な領域において研究活動を行うという幸運に恵まれました。 研究者として大きな転機となったのは、1962年暮れのpn接合半導体レーザの発明でした。これにより、研究の対象がホモ構造からヘテロ構造へと移りました。現在は、これまでにない高度な「人工原子」である量子ドット構造の開発、ならびに大きな可能性を秘めていると考えられる、同構造のオプトエレクトロニクス、高速エレクトロニクスへの応用に注目しています。 講演では、ロシア科学アカデミーが現在置かれている状況、ならびに現代科学全般に関する私の見解も述べたいと思います。
講演テーマ
数学と生物学を結ぶと…
講演要旨
進化生物学への貢献、とりわけ進化にゲーム理論を取り入れた貢献に対して、栄誉ある京都賞をいただくことになりました。ゲーム理論の導入には、関連性のな い2つの技術、つまり博物学の知識と数学的モデルを創る技術を融合させる必要がありました。私は幼い頃から自然に大変興味を持っていました。今でもその興 味は私の生活の大切な一部であり、暇さえあればバードウォッチングや園芸などを楽しんでいます。数学の才を伸ばすことができたのは、学生時代のすばらしい 先生方の指導のおかげであります。そして、航空機の設計に携わった6年間と、J. B. S. ホールデーン教授のもとでの研究生活を通して、数学を現実 の問題に応用する力を培うことができました。進化に関するゲーム理論は、まず動物の儀式化された闘争の進化を分析するために取り入れられましたが、その 後、植物の成長やウィルスの進化など多方面に応用されています。ある動物が理論予測通りの奇妙な行動をとることが確認された時、私は科学者として至福の悦 びを感じるのです。
講演テーマ
科学と音楽と政治のはざまで
講演要旨
私は14歳の時にピアノを習い始め、そのすぐ後に作曲もするようになりました。同じ頃、複雑な化合物の構造表示に魅了され、有機化学にも強い興味を 抱くようになりました。15歳から18歳までは数学に熱中し、その結果、クルージュ(ハンガリー名:コーロズヴァル)大学の数学と物理の入学試験に合格し ました。しかしながら、1941年当時、ハンガリーにはユダヤ人に対する入学許可人数制限があったため、大学への入学は拒否されてしまいました。その代わ り、幸運にも同市の音楽学校に入学が認められ、音楽理論と作曲を学ぶことになりました。 学業は戦争の勃発で中断されました。私はハンガリー軍に徴用され、強制労働に従事させられました。家族は強制収容所に送られ、そこで生き延びたのは母だけでした。 戦後、私は科学者の道に戻る代わりに、ブダペストの音楽アカデミーで作曲の勉強をしました。そして1950年、同アカデミーの和声と対位法の教師に 任命されました。東欧諸国は、ナチの迫害を逃れた後、今度は別のテロ体制、すなわちソ連の共産主義に苦しめられていました。私はこのような生活に耐えられ ず、1956年にハンガリー動乱がソ連軍によって鎮圧された後、オーストリアに逃れました。ウィーンからケルンに移り、そこで電子音楽の創造に用いられる 技法を学び取ることができました。しかしながら、やがてそういった技法の限界に幻滅を感じ、いくつもの音の層を重ね合わせた多層式の管弦楽や声楽に、同じ 技法を応用しようと思い立ちました。 その結果、1950年代の後半には、「ミクロポリフォニー」の手法を駆使して、管弦楽曲の大作《アパリシオン》や《アトモスフェール》を、さらに 1965年には《レクイエム》を作曲しました。同じ頃、歌手と室内アンサンブルのための「音声」作品―《アヴァンチュール》と《ヌーヴェル・アヴァン チュール》―も世に出しました。また、かねてから多層式のリズム構成に関心を寄せてきた私は、その構成を100個のメトロノームによる《ポエム・サンフォ ニック》(1962年)、2台のハープシコードによる《コンティヌウム》(1968年)、そして《2台のピアノのための3つの曲》(1976年)に応用し ましたが、後になって《ピアノのための練習曲集》と《ピアノ協奏曲》(1985年~2001年)では、さらに新しいリズム構成を生み出しました。5個の自 然の角笛による合奏を含む《ハンブルク協奏曲》(1999年)などでは、非平均律の和声も用いてみました。 私はまた、1950年代のブダペストにとどまらず、1961年から1972年のストックホルム、1972年のスタンフォード大学、そして1973年から1989年のハンブルクに至るまで、生涯の大部分を後進の教育に捧げてまいりました。