第16回(2000)
2000年
11 /11 土
会場:国立京都国際会館
第16回(2000) 京都賞受賞者
講演テーマ
コンピュータと共に歩んで
講演要旨
私は興味深い時代に生きてきました。本日は、情報科学者としての私の考え方、キャリアを決定付けた運命のめぐり合わせ、ならびに周囲の状況についてお話しさせていただきます。私の犯した過ちから学び、あるいは成功談に勇気づけられ、「人のため、世のために尽す」という京都賞創設者の理念の実現に向けて努力してみようと考えられる方がこの中から何人かでも出てくだされば幸いです。また、そうなることが、第16回京都賞を授かったことに対する何よりの恩返しとなるのではないかと思います。 私は1934年にスリランカで生を受けました。第二次世界大戦中は、ジンバブエと南アフリカで何年か過ごしました。1946年、父がイギリスに引きこもったのを機に、私も遅れ馳せながら伝統的な英国式教育を受けることになりました。古典ギリシャ文学、ラテン文学、ならびに両言語学を専攻した私は、1956年にオックスフォード大学を卒業しました。在学中には、古代史や、以前から好きだった哲学の勉強もしました。また、英国海軍で2年の兵役を務める間に、ロシア語を学びました。その後、大学院生としてオックスフォードに戻り、統計学の課程を修了しましたが、専門分野に関する公式の資格としては、これが唯一のものとなります。私が統計学に魅せられたのは、それが人間の知識や不確実性に関する哲学的な問いと関わりがあるように思えたからです。学生生活の最後の年は、モスクワ国立大学でコルモゴロフ派の確率の研究を行っていました。そこで私はクイックソート・アルゴリズムを発明し、コンピュータによる自然言語翻訳の最先端の研究に関わりました。こうした研究をテーマに、私は、最初の学術論文をロシア語で執筆、出版しました。 1960年、イギリスに戻った私は、研究生活に終止符を打ち、就職することにしました。就職先に選んだのは、小さなコンピュータ・メーカーで、私はプログラマーとして採用されました。実を言うと、当時、私は、コンピューティングの進歩は、すでにピークを過ぎていたと考えていたのですが(大きな間違いでした)、この会社で、またしてもコンピューティングという学問に見え隠れする哲学との関わりにすっかり魅せられてしまったのです。この会社では、人工言語である国際的算法言語ALGOL60用のトランスレータープログラムの開発を担当しました。その後、実力以上の昇進を果たした私は、OSの開発責任者に任命されましたが、こちらはうまくいかず、また、機械アーキテクチャの開発も行いましたが、こちらも成功しませんでした。後に、この会社が2度にわたって、より大きな会社に吸収されたために、私はベルファストにあるクイーンズ大学のコンピュータ科学教授として再び大学に戻り、8年間の宮仕えで培ったコンピューティングに関する知識の講義を行うことになったのです。 私がベルファストに赴いた1968年当時は、ちょうど北アイルランドの社会情勢が不穏化し始めた頃でした。ほんの最近まで一向に沈静化の兆しが見えなかったこの問題ですが、そうした時代背景にもかかわらず、私は優秀な教授陣をコンピュータ学部に迎え入れることができ、急速に拡大しつつあったこの分野における教育の要求に応えることができたのです。当時の私は、民間で行った初期のプロジェクトの成功、あるいは失敗の理由を自分なりに解明することを研究の具体的目標としていました。こうした課題に取り組むにあたり、私は、長期的かつ、哲学的とでも呼べるようなアプローチを取ることにしました。私は、現役研究者としての以降のキャリア全体をカバーする研究予定を立てたのです。30年先に私が引退するまでには、研究の成果が、民間で実用化できるほどまとまったものとはならないだろうと考えたのです。1977年、コンピュータ学の教授としてオックスフォード大学に招かれた私は、またもや地道に資金集めを行って、教授陣をリクルートし、コンピュータ学を同大学のカリキュラムに取り入れるべく尽力しました。昨年、私は、同大学数学部上級教授の職を辞し、再び民間に身を投じることになりました。 現在、私は、ケンブリッジにあるマイクロソフト研究所に上級研究員として勤務しています。同研究所では、大型コンピュータソフトの開発者が、私をはじめとする理論研究者の研究成果を応用することによって、そのソフトを使う多くの人々が利益を得る、という若い頃の夢を追求しています。近い将来、こうした大型ソフトをまったく使わなくても済む人を捜すのは難しくなるでしょう。
講演テーマ
ある生物学者の旅
講演要旨
今回の記念講演では、私個人の自分史、哲学、人生観などについてお話をさせていただきます。西暦1084年にまで溯るゲーリング家の歴史から始めて、スイス北部ライン川流域の美しい村落、リュードリンゲンで農業を営んでいた祖父の話を簡単にします。私の父、ヤコブ・ゲーリングも1903年にこの村で生まれました。父はチューリッヒでエンジニアリングを学んだ後、フランスに移住し、そこでアルザス人で、私の母となる女性と出会います。私は第二次世界大戦開戦直後の1939年、チューリッヒで生まれ、2人の姉妹と兄弟のような存在だったいとこに囲まれて幸せな子供時代を過ごしました。小学校では、その後の私の人生に大きな影響を与えることになる、素晴らしい先生との出会いに恵まれました。ギムナジウム(高校)では生徒同士の激しい競争に揉まれて、知性を磨くことができました。少年時代、私は蝶の変態を見て生物学に興味を持ちました。チューリッヒ大学では、当時最先端を走っていた発生生物学者、エルンスト・ハドーン教授に師事して動物学を学びました。その後、米国にあるエール大学のアラン・ガレン教授の研究室に移って分子生物学を学びました。1964年にはエリーザベト・ロットという女性と結婚し、長男のシュテファンがチューリッヒで、次男のトーマスがニューヘブンで生まれました。1969年、エール大学で自分の研究室をもらい、エリック・ヴィーシャウスという大学院生と2人で研究を始めました。1972年、家族と一緒にスイスに戻り、バーゼル大学ビオツェントルム(バイオセンター)の教授に就任しました。研究テーマとしては、主にショウジョウバエとその発生における遺伝子的制御に取り組み、共同研究者と共にホメオボックスを発見して、目の発生、進化をつかさどるすべての生物に共通したマスター制御遺伝子の特定に成功しました。講演では、私の研究活動を支えるモチベーションと哲学、さらに科学的な発見がどのようになされるのかについてもお話しします。
講演テーマ
批判と確信—私の哲学の歩み—
講演要旨
私が哲学に関心を持ちはじめたのは、哲学について初めて学び、知的勇気について助言を得た17歳のときであり、私にとってこの助言は生涯忘れ得ぬものとなりました。次いで、哲学者ガブリエル・マルセル先生との出会いと交際、捕虜生活中に経験した運命を左右する読書を通じて、私の持続的な確信の基盤が形成されました。その後、自分が教える立場になり、フランス国内と米国で幸せな教師生活を送りました。 今回の私の講演では、まず最初に、私のこれまでの経歴を簡単に説明し、私の最初の重要な研究である『意志的なものと非意志的なもの(Le volontaire et l'involontaire)』から最近の研究に至るまでの私の思考の変遷をたどってみたいと思います。 次に、思弁的英知と生身の人間が発揮する実践的英知とを離反させないようにし、2つの実践的英知の例を通じて考察を試みたいと思います。ここで私は2つの例を取り上げます。ひとつは医学の領域におけるものであり、もうひとつは裁判判決の領域に属するものです。個人的関与は反省よりも上位に位置します。そこで私は、人間と苦しみとの関係の問題が提起される状況を考察し、長い人生の終わりにおける助言をもって、私の講演を終わりたいと思います。病気の人間が死に近づき、治療がもはや治癒ではなく付き添うことを意味する段階において、我々はあらゆる手段による延命治療と安楽死という難しい問題について考える必要があります。