第14回(1998)
1998年
11 /11 水
会場:国立京都国際会館
第14回(1998) 京都賞受賞者
講演テーマ
自然から自然科学へ
講演要旨
私はスイスの小さな田舎町で生まれ育ちましたので、幼少期には自然と親しんで過ごし、植物や動物を詳細に観察したものでした。大学では、数学、物理学、化学、体育学の学位を取得し、競技スポーツへの参加が大切な趣味となりました。工科大学の教授職に就いたこともありましたが、今日では、構造生物学の研究で核磁気共鳴(NMR)法を用いたハイテクの仕事に従事しており、勤務する大学の生物学部の学部長も務めております。今回の講演では、人生のいくつかの重要な時期について振り返り、長年にわたって遂行してきた様々な活動が、科学者ならびに人間としての自分の成長に、どのように影響を及ぼしたかを思い起こしてみたいと思います。
講演テーマ
確率論と歩いた60年
講演要旨
一見無秩序に見える現象の中に統計的法則があるという事実に、学生時代から心を惹かれていて、これを解明する数学が確率論だと感じていましたが、当時の確率論の論文や著作には、確率論の基礎概念である確率変数に明確な定義が与えられていない点が不満でした。19世紀末に実数の厳密な定義が与えられ、初めて現代的な数学体系といえるようになった微分積分学などに比べて、数学の一分野といえるかどうか、疑問視する数学者も多く、確率論の研究者は、世界でもロシアのコルモゴルフ、フランスのポール・レヴィーなど数えるほどでした。 大学を卒業した昭和13年(1938)から、名古屋大学に助教授の職を得た昭和18年(1943)までの5年間、私は内閣統計局に勤めていましたが、川島局長(秋篠宮妃紀子様の御祖父)の御配慮で、自由な時間が多く、コルモゴルフの『確率論の基礎概念』(1933)、ポール・レヴィーの『独立確率変数の和の理論』(1937)などを読んで、自分の研究を続けました。レヴィーの理論の叙述は、新しい分野の開拓者の仕事らしい直観的な把握にもとづく部分が多く難解というのが定評でした。私は、これをコルモゴルフ流の厳密な論理で叙述しようと試み、アメリカのドウブが導入した正則化という概念を用いて、孤独な苦心を重ねた結果、目的を達することができました。これが私の最初の論文で、現在では私の方法でレヴィーの理論を叙述するのが普通になっています。 数学者は、厳密な数学体系を「美しい音楽」あるいは「壮麗な建築」と感じています。しかし、音楽理論を全く知らなくても、モーツアルトの音楽に感動し、宗教的知識がなくてもケルンの大聖堂の美しさを感じることができるのに対して、数学体系の美しさは、論理法則を表現する数式群を理解することなしには、見ることも聞くこともできません。数式の並ぶ論文の楽譜を読みとり、心の中で演奏することのできる研究者にだけ聞こえる音楽の美しさ、それを伝えることができるのは、やはり数式だけだと思っていました。 瞬間ごとに偶然的要素が介入する現象を記述するのに、現在広く用いられている確率微分方程式は、「伊藤の公式」とも呼ばれていますが、論文の発表当時は殆ど注目されませんでした。発表から10年以上たって、多くの数学者が私の論文の「楽譜」を読みとり、新しい自分の演奏をすることで、この理論の発展に寄与してこられました。さらに近年、数学以外の分野でも多様な演奏がされ、抽象的な数学の美しさだけでなく、現実の世界での大きい響きを聞けるようになったことは、私にとって望外の喜びです。多数の研究者の方々と、暗中模索の時代に、未完成の仕事から微かな楽音を聞き取って、私を励まして下さった先生方に、心からの感謝をささげて、京都賞受賞の喜びとしたいと思います。
講演テーマ
ノーバート・ウィーナーとマーシャル・マクルーハン─コミュニケーション革命─
講演要旨
ノーバート・ウィナーとマーシャル・マクルーハンが唱えたことを細かく調べると、この二人の学者には共通点があることがわかります(メディアの混和、エレクトロニクスと人間の神経系のシミュレーション、非決定論(つまり曖昧さの存在)などです)。ウィナーは、こうした特徴をマイクロフォームとして使って、つまり、マクロ的なものをミクロの世界に置き換えて、エレクトロニクス時代の細かい技術内部を構築しました。一方、マクルーハンは、こうした特徴をマクロフォームとして使って、つまり、ミクロ的なものを広い世界で捉えて、エレクトロニクス時代の外観を心理的、社会学的な面から解釈しました。 世界平和と地球の存続は、一般の人々にとって最大の関心事ですが、公共テレビにとっても、この2つのことが最大の関心事でなければなりません。現在我々が必要としているものは、自由貿易の旗頭となってくれるものであり、欧州共同市場の精神と手続きに倣ってモデル化されたビデオ共通市場を実現してくれるものです。マクルーハンは、早くから、テレビによる「地球村」を構想し、その実現を待ち望んでいましたが、その構想の基となっているのは、H.A.イニス(1951)の「伝達のバイアス」(The Bias of Communication)です。あまり知られていないこの本のなかで、イニスは、活字印刷の発明によって国家主義が生まれたと述べています。しかし、皮肉なことに、今日では、ビデオ文化のほうが、印刷メディアより、はるかに国家主義になっています。どこの本屋にも、カミユやサルトルの本は必ずあります。なのに、テレビはというと、最近のフランスのテレビ番組を思い出してみられるとおわかりのように、テレビは、氾濫する暴力のニュースを追うのに忙しく、テレビから多くのことを学ぶ子供達は、スイスやノルウェーを、銀河系のどこかにある広い土地だと思っている有様です。