第13回(1997)
1997年
11 /11 火
会場:国立京都国際会館
第13回(1997) 京都賞受賞者
講演テーマ
我がコンピュータの旅
講演要旨
今から35年前に私が始めたコンピュータの旅路をたどり、以下の項目について説明します。 どのようにしてコンピュータの旅を始めたか どのようにしてコンピュータのプログラマになったか どのようにしてコンピュータの設計を始めたか どのようにしてチップの設計を始めたか マイクロプロセッサの開発でぶつかった困難や障害 どのようにしてこれらの障害を乗り越えたか マイクロプロセッサの開発がもたらした波及効果 コンピュータの旅を通して私が学んだ5つの教訓 私の人生哲学
講演テーマ
21世紀のコンピュータ技術について
講演要旨
20世紀は技術が長足の進歩を遂げた時代であるとともに、人口が爆発的に増加した世紀でもありました。人口の増加によって地球上の限られた資源に巨大な負荷がかかるようになりました。技術の進歩のマイナス面ばかりを見て、昔の単純な生活様式に戻ろうと言う人もいますが、そのような単純な生活様式は効率が悪く、逆戻りは最早、不可能です。私たちが唯一出来ることは、これ以上の人口増加を抑制し、地球上の資源をもっと有効に利用するために技術を活用することです。 今世紀に開発された機器の中で最もパワフルなツールはデジタル・コンピュータでしょう。デジタル・コンピュータは様々な技術分野に応用可能です。マイクロプロセッサの開発によって、デジタル・コンピュータのコストが下がり、また、様々な装置の中に演算機能を組み込むことが可能になりました。 マイクロプロセッサによってパソコンも登場しました。インターネットのようなコンピュータ・ネットワークにアクセス出来ることで、一般の人々のパソコンへの関心が高まっています。しかしながら、インターネット以外にもマイクロプロセッサには多くの用途があることを忘れてはいけません。組み込み制御用マイクロプロセッサを多くの機器、自動車、その他のシステムに利用することによって、地球上の限られた資源を有効に利用することが出来ます。 今後もコンピュータ研究を続けることで、私たちが使用する装置に様々な新しい機能を加えることが可能です。例えば、自動通訳翻訳装置が出来れば、コミュニケーション・システムが進歩するでしょうし、パターン認識によって自動操縦の自動車も出来るようになります。これらの組込用アプリケーションの研究を継続するためには、若い世代の人々がコンピュータの仕事に関心を持つようにしむけ、次世代のコンピュータ学者がコンピュータを単なる情報へのアクセス装置としてではなく、幅広い観点から考察するように教育することが重要であると思います。
講演テーマ
シリコンバレーでの我が半生—新製品開発にかけて
講演要旨
私はイタリアで育ちましたが、非常に幼い頃から私は機械類の虜で、特に飛行機にひかれていました。パイロットになりたいと思い、12歳の時には自分で設計した模型飛行機を作りました。模型飛行機作りに夢中になるうちに、次第に技術教育を受けたいと思うようになりました。1961年に、私は19歳でオリベッティに入社し、小型のデジタル・コンピュータの設計に携わりました。また、4人の技術者のリーダーとして、このコンピュータの製造に成功しました。 そのうち、どうしても物理学を学びたいと思うようになり、オリベッティを退職してイタリアのパドア大学に入学しました。1965年に物理学博士の称号を受け、最優秀学生として卒業しました。1966年にシリコンバレーに行く機会を得ましたが、その時、是非そこで働き続けたいと思いました。私のこの希望は、やがて1968年に実現することになります。その後フェアチャイルド・セミコンダクタ社の有名な研究所(カリフォルニア州パロ・アルト)に職を得、シリコン・ゲート・テクノロジーの開発に携わりました。シリコン・ゲート・テクノロジーはMOS集積回路の製造方法として当時、最も進んだ技術で、来るべき大規模集積回路時代の先触れとなったものです。 私は1970年にインテルに入社し、世界最初のマイクロプロセッサとなった4004の設計を手がけました。その後5年間、市場に出回ったものだけでも20件以上の集積回路の設計に携わりましたが、その中にはマイクロプロセッサ市場の成長を促進した8080も含まれています。 1974年に私は「企業病」にとりつかれました。これはシリコンバレーに蔓延している「病気」で、私はかつての上司と共同でマイクロプロセッサ専門のザイログ社を設立しました。同社の最初の製品となったZ80マイクロプロセッサは、私が構想したもので、発売早々にベストセラーになりました。Z80の発売は1976年でしたが、今だに量産されています。ザイログ社はマイクロプロセッサの初期の時代に重大な役割を果たしましたが、ザイログ社の経営最高責任者として、私は競争の激しいビジネスの世界で企業を経営することの難しさを学びました。 その後の17年間に、私はさらに2社を設立し、経営最高責任者を務めました。シグネット・テクノロジー社とシナプティクス社です。シグネット・テクノロジー社では、1984年初めにインテリジェント電話を発売しました。この電話をパソコンに接続すると、パソコンが音声とデータのワークステーションになります。シナプティクス社の方は1986年の設立で、ヒューマン・コンピュータ・インタフェースの製品の開発・販売を専門にしています。そのために、コンピュータに触覚、聴覚、視覚を持たせる研究を進めています。1995年には、シナプティクス社がタッチパッドを発売しました。タッチパッドは、まるでコンピュータの皮膚のように指で触られた場所を知覚する位置決め装置で、大成功を収めました。タッチパッドのおかげで同社も急成長し、成功しています。 1980年代半ばより、私は個人的に脳の働きに関心を持っております。特に、複雑な機構を操作することで、どのようにしたら機械に意識を持たせることが出来るか、といったことにとりつかれています。この疑問を解くために、私は余暇の大半を費やしています。インテリジェントなマシンを作ることで、逆に人間性への理解も進むのではないでしょうか。また、このような研究を通して、人を人たらしめている人間の特性について学び、この素晴らしい宇宙における私たち人間の役割を考察することが出来ると思います。もしかしたら、人間一人ひとりの心の奥深い部分に、宇宙(コスモス)の目的と結びついた深い精神の次元があるのかもしれません。このような発見が遠くない将来にあっても、私は驚かないと思います。
講演テーマ
私とマイクロプロセッサ—初めに応用ありき、応用が全てである
講演要旨
世界初のマイクロプロセッサ4004は日本の電卓メーカーであったビジコン社と米国の半導体メーカーであるインテル社との間で共同開発された。電卓やビジネス機器にも使える、10進コンピュータとストアードプログラム論理方式を使った、汎用LSIを開発する過程で、1969年8月に2進コンピュータの枠組である基本アーキテクチャが発明され、1969年12月にマイクロプロセッサ4004システムの具体案が完成し、1971年3月に開発に成功した。世界初のマイクロプロセッサが成功裏に開発されたのは、応用、コンピュータ、ソフトウェアそしてLSIなどの異なる専門分野の開発技術者が、協力し合い、学際的に、かつ挑戦的に、知恵とアイデアを出し合い、多くの問題を粘り強く解決しつつ、一粒の種から出発し製品としての完成品を作り上げたからである。 マイクロプロセッサは、『新時代を切り拓く技術』となり、その誕生と共に2つの顔を持つようになった。マイクロプロセッサは、前世代の『論理の時代』の集積回路で作られたハードウェア論理回路網をソフトウェアで置き換えるという、『プログラムの時代』を生み、知的能力としてのマイコンへの道を開いた。同時に、コンピューティング・パワーを創造に挑戦する若き開発者に開放し、パソコンやゲーム機が誕生し、ソフトウェア産業が花開き、高性能マイクロプロセッサへの道が開かれた。 創造的開発とは、未だ世の中に存在していない製品を開発することだから、成功という希望と失敗という不安を抱き合わせて、人跡未踏の荒野を羅針盤も持たずに進むようなものである。また、創造的開発とは、芸術や宗教と同じく、自分の世界を創り出すことでもある。したがって、創造的開発における新規概念の創造のためには、強い意志を持って、開発こそ我が道と信じ、人の歩んだ道を行ってはいけない。創造的開発の基本は現状に決して執着しないことである。今まで培った技術やノウハウや経験を捨てることは決して容易なことではない。しかし、経験という過去と現在を分析し、解析し、昇華させ、エッセンスだけを残し、あとは思い切って捨てるのが成功への一歩である。 解決しなければならない多くの複雑な問題を抱えた応用にこそ、貴重な宝石の原石がいっぱい埋まっている。それを見つけ出し、カットし、磨き上げることが、創造的開発であり、技術者の叡智であり、開発の面白さなのである。
講演テーマ
荒々しい自然を人間のものに—人の爪あとを吸い込む自然を作るには
講演要旨
本年度の京都賞基礎科学部門に選ばれましたことは、熱帯の野生生物保護に関する私たちの活動を評価していただいたということだと思います。私のみならず、妻のウイニー・ホールウォッチスを始めとする何百人もの生物学者、そして何十万もの熱帯の野生生物にとって、この受賞は大きな喜びです。ここに、稲盛博士、顧問の皆様に心より御礼申し上げます。本日の私の講演は、熱帯の野生生物の声を代弁するものと考えていただきたく思います。 さて、ヒト・ゲノムの中の一体どこに、235,000種の熱帯生物が安住出来る場所を見つけることが出来るでしょうか。結論を申しますと「庭」ということになります。まず、235,000という数字ですが、なぜこれほど大きな数字になるかと申しますと、それは、自然界における生物多様性と持続可能な生態系が、およそ235,000種の生物から成り立っているからです。もし、これらの種が人間の保護下に入らなければ、野生生物は過去1万年の間たどったのと同じ道、すなわち人間に搾取され続け、絶滅へと進むしかないのです。自然界の代弁者として、また、野生生物の弁護人として、私は野生生物にこういうしかありません。もし人間をうち負かすことが出来ないのなら、人間社会に所属してしまいなさい。 (先ほど私は、野生生物の安住の地をヒト・ゲノムの中に探す話をしました。ヒト・ゲノムとは端的に言えば、自己増殖と、そのための直接的な性行為、身を守るための住まいの確保、そして食糧の確保を目的としています。)では、私たち人間は何十万種もの生物を性行為の目的、すなわち人間社会の求愛行為の中に取り込むことが可能でしょうか。私は不可能だと思います。同様に、私たちが身を守るための住まいの確保に、これらの生物種やその活動を取り込むことも不可能です。ですから、残る一つ、食糧確保の領域でしか、生物多様性の安住の地は無いのです。人間は長い歴史の中で、家畜や栽培植物の世話をしてきましたから、食糧確保のために生物を育てることは、ヒトの遺伝子の中に深く根付いた行為だと思います。コンピュータに例えるなら、農業は(交換の出来るソフトウェアではなく、)配線によって固定されているハードウェアなのです。ですから、この永遠に続く農業行為、つまり「庭づくり」の中に野生生物を取り込むことによるしか、野生生物が人間と共存し、生き残る道は無いのです。 では、どうやって235,000種もの生物を「庭」に取り込めば良いのでしょうか。それには、荒々しい自然を今のままの状態で「庭」として認めること、人間が長い年月をかけて「庭」にしてきたように、荒々しい自然と接することです。次に問題となるのは、如何にして(自然界に)人の爪痕を残さないようにするかということです。もし、私たちが爪痕を消し去ることが出来ないなら、「庭」は破壊されるでしょう。一方で、もし爪痕を残すような人の進入を阻止すれば、そこはもう「庭」でなくなってしまいます。 答えは、自然を修復することです。 自然の修復は昔からある概念で、自然界ではいつも行われているものです。今日、自然の「庭」を持続的に利用しようと考えるなら、1カ所から多くの種類の収穫を得、様々な人に利用してもらい、そして種々の爪痕が残ることを理解しておかなければなりません。では、どの程度の収穫を期待して良いのでしょうか。それは、各「庭」がどの程度の爪痕を吸収出来るかによります。しかし、農業と自然界の「庭」との間には大きな違いがあることを知っておかなければなりません。自然界の「庭」は、永久に自然の「庭」でなければならず、そのためには人の爪痕を持続的に吸い込まなければならないのです。また、ここでいう、「爪痕を吸い込む」ということは、生物多様性の95%が生き残るために5%を諦めるということです。5%の犠牲はヒトのゲノムに適応するためのコストとして必要なもので、完全に爪痕を消し去ることは不可能です。 最後に、私はコスタリカに住み、そこで多くの「庭師」とともに生物学の研究をしています(ホームページ:http://www.acguanacaste.ac.cr)。しかし、本日は抽象的で幅広い概念についてお話ししました。大切なことは、自然界を永久に保全するという目的です。個々の行為は、特定の場所、時間、社会の内で起きるものですが、この目的は常に堅持しなければなりません。目的を忘れてしまえば、どんな(自然保護)条約や、協定、法律が出来ても成功することはないのです。 今日、コンピュータの発展によって知識の普及が容易になり、基礎科学の研究が進んでいる一方で、特定の知識を選択して秘匿するケースも増えています。現在生き残っている熱帯の野生生物に関しても、(科学による真理の探究と人間社会が持つ知識を秘匿しようとする傾向との)バランスがどちらに傾くか、注意する必要があります。科学と人間社会は自然界の「庭」に関して決して協調関係にあるとは言えません。最善のシナリオは科学と人間社会がパートナーシップを築くことですが、逆に最悪のシナリオとしては、一方が他方を駆逐してしまうことが考えられます。自然の世話をする「庭師」によって優しく踏まれる「庭」では両者のパートナーシップが可能かもしれません。今、自然界は、戦場における絶滅と同様の危機に瀕しているのです。
講演テーマ
我が道
講演要旨
(1)日本への賛辞 日本の都市、国民、伝統文化、現在の文化に対する賛辞 (2)問いかけのモザイク 私が芸術の道を選択するに至った経緯 -統一空間の階層化から見た説明- 行動と知識をもたらす各基準の定義 芸術:部分的に推論的なもの 数学・自然科学:完全に推論的なもの 実験による実証を必要とする数学・自然科学と、実証不可能な美的価値を含む芸術の領域 (3)経歴 私の知的、芸術的発展における各段階 ギリシャの全寮制私立学校での子供時代 ギリシャの古典と天文学との出会い ギリシャ内戦 アテネ工科大学での勉学 第二次世界大戦 共産党入党と街頭デモ フランスへの亡命 建築家ル・コルビュジエとの共同作業 (4)ギリシャ音楽とヨーロッパの前衛音楽 伝統的なギリシャ音楽とヨーロッパの前衛音楽を融和させようという最初の作曲上の試み 全ての音楽を音のシグナル、メッセージとして理解すること (5)推計音楽 「推計音楽」の構想と確率計算の作曲への応用(メタスタシス:1953~54年;ヒトプラクタ:1954~55年) 直線的なポリフォニーの限界から脱出し、ミクロおよびマクロの作曲に、音群、および一般的な確率を取り入れ、また、発展させるため、組み合わせた計算法を開発したこと(アホリフシス:1956~57年) 最初のコンピュータ・プログラム「ST」の開発と実現(ST10:1956~62年) (6)形成化された音楽 私が実践している作曲方法を理論化し、「形成化された音楽」として1963年に出版。1992年改訂・増販。 「時間内」と「時間外」の構造の区別 「時間」とは何か、「時間」の定義 群理論の発展(ノモス・アルファ:1956~66年) (7)ポリトープ 1970年代における音楽と建築を融合させる新たな方法の開発(クリュニー等) (8)樹枝状態 上記の関心事と平行して、しかし、それらとは無関係に発展した「樹枝状態」という新たな概念について(エリフソン:1974年) (9)ユーピック 1970年代半ばから、数学自動音楽センター(CEMAMu)において開発したユーピック(UPIC)システムと、その後研究を続けたミクロサウンド合成について(ミシーネス・アルファ:1978年)その後の、ダイナミックな推計音楽合成のためのGENDYNプログラム開発 (10)ふるいの理論 1970年代後半、全音楽のパラメーターにおける音階の問題を解決するため編み出された「ふるいの理論」について(ヨンカイエス:1977年;プレアデス:1978年) (11)最近の心境 新しい理論を持たない現在の心境は、大いなる自由の境地であり、新たな独創性の始まりであること