第23回(2007)
2007年
11 /11 日
会場:国立京都国際会館
第23回(2007) 京都賞受賞者
講演テーマ
私の化学研究の旅路—人から学び、物に学ぶ—
講演要旨
私の化学研究の旅は、昭和22年(1947年)4月、東京大学理学部化学科の後期学生(3年生)として、鮫島実三郎先生の研究室に加わったときから始まりました。戦後の悲惨な研究室には、新着の文献は皆無でしたが、恩師、先輩の直接の教授は珠玉の宝でした。かくして私の旅路は“人から学ぶ”ことに始まりました。これは60年を経たいまの2007年まで、変わることはありません。その記録は、私の旅路そのものです。その中には、激励もあれば、叱咤もあり、またきびしい説教もありました。ここでは、その一つだけに触れ、数々の貴重な記憶は当日の話題といたします。その一つとは、私の分子科学研究所(1975-1996)で迎えた還暦の会(1987年、4月5日)で戴いた恩師赤松秀雄教授からの一句「省みて、春あり夏も送りけり、秋豊穣の季迎うべし」です。 私の生き様にもう一つ、「物に学ぶ」があります。化学は物質(もの)を造り、その本質を知る学問です。私の最初の出会いは卒業実験の課題、炭素粉末カーボン・ブラック)の電気抵抗測定です。用いた物質の「カーボン・ブラックは、絶えず燃えている」とする示唆は私の一生の研究課題、有機半導体に突入する大きな力となりました。地球上にある物質(もの)は、天然、合成を含めて約1億種近くあります。そして化学を専攻する者は、必死になって新しい物質(もの)を合成しています。 ここで触れて置きたいのは、有史以来われわれの祖先が如何に「天然の物(もの)に学んで来たか―言葉を換えると自然に学んで来たか―」を通して、人類の進歩に貢献したかを伝えたいのです。そして、その学んだことが現代化学の知識からしても如何に適切であったかと云うことを知っていただければと思います。 一例を染料にとって触れておきます。1500年もの昔の正倉院の御物に見られる布の染料に、紅花、サフランがあります。体験を通して発見したこれら染料の分子が染色に最適な構造を持っていることが解明されたのは、それから千数百年経た最近のことです。 染料はその一例です。ペニシリンも、天然痘ワクチンも、また日本が誇る研究、化学調味料の単離も自然から学んで生まれた物質(もの)です。 人間の得た知識を正しく次の世代に伝え、不思議に満ち満ちた自然にある物から学び、バランスの取れた地球を維持することに私は大きな期待をかけています。
講演テーマ
波に魅せられて
講演要旨
私は、1936年に6番目の子供として生まれました。両親は、物事の探求にあたっては、私のやりたい方法でやらせてくれました。また、戦時下であったため、少年時代には、正式な授業も、本も、ノートも、疑問に思うことを尋ねる人も満足にはありませんでした。そのため、誰かに聞いたり、本で調べたりする前に、まずは自分自身で考えて、解答や解決策を見いだすということが私の習い性になりました。私は、私の研究人生を通じてこの基本的な姿勢を持ち続けてきたように思います。 高校生になるころには、科学に強い興味をもつようになりました。また、子供のころに見ていた日本アルプスの雄大な姿に畏敬の念を抱いていましたので、自然がどのようにして山を造ったのかを知りたくなりました。 科学と自然の力への興味から、大学では地球物理学を専攻しました。そして、物理で波動方程式を学んだことをきっかけに、波を利用して地震と火山についての研究をするようになりました。その後、スペースシャトルの出す衝撃波や、彗星の衝突に起因する木星大気の擾乱など、波を利用して、他の現象についても研究することができました。子供のころから不思議に思っていたいろいろな自然現象を研究できたことは素晴らしいことでした。 1980年代半ばには、どうすれば私たちが得た科学知識を社会に役立てることができるかということを考えるようになりました。私は、地震被害の軽減のために、リアルタイムの地震情報を使おうと思いました。そして、多くの人達と共に、実質的な被害軽減のためにリアルタイム情報を利用する効果的な方法をいくつか開発しました。カリフォルニア工科大学と米国地質調査所で始めたCUBE(Caltech-USGS Broadcast of Earthquakes)プロジェクトはその一つです。 私は、自分が本当にしたかったことを続けてこられて大変幸運だったと思います。次の世代の人たちにアドバイスをするとすれば、「自分が最もしたいことをして、富や名声を得たいという欲望に人生をまかせるべきではない。」ということになります。
講演テーマ
私を突き動かすもの
講演要旨
私は、とても個人的な、多くの小さな経験と出来事に満ちた私の人生についてお話したいと思います。私は1940年ゾーリンゲンに生まれました。子供時代は戦争という運命に定められた時代でした。空爆、防空壕への避難、あらゆる生き残りのための戦いの時代でした。 私の両親は小さなホテルとレストランを経営していました。近くの劇場の歌手が数名、お客にいて、私の器用な体の動きや、楽しそうに動きまわる様子を見ていた彼らは、ある日、私を児童バレエ団に連れていったのです。そのとき私はすぐに感じました。「私はこれがしたい、これこそ私の表現の仕方、私の言葉だわ。私はダンサーになりたい」と。 14歳のとき私はダンスの勉強のため、エッセンに行き、フォルクヴァンク・シューレに入学しました。ここの特徴で、大変素晴らしかったことは、一つ屋根の下に表現芸術(パフォーミング・アーツ)と美術(ファイン・アーツ)の両方が教えられていたことです。つまり、音楽、オペラ、演劇、ダンスが、絵画、彫刻、写真、デザインなどと一緒に教えられていました。ですから、他から何かを学び、経験し、全てがお互いに、自然に良い影響を与え合いました。そこでは多くのプロジェクト(共同作業)がなされました。この創造的な作業が私の後の仕事に大きな影響を与えたのです。また、ニューヨークでの勉学も同様に素晴らしいものでした。それはダンスの最盛期でした。多くの卓越した教師たちや振付家たちとの仕事、そして数え切れないほどの経験と出来事。全てが同時に隣り合って存在していたあの頃。それらは私にとって、とても深く、重要な印象として残っているのです。 そんなわけで、新たに創設されたフォルクヴァンク・バレエに戻るという申し出を受ける決断をすることは、私にとって大変難しいことだったのですが、私は踊り、教え、私自身の最初の振付を行い、そしてこのバレエ団の監督となりました。そこでは私は再び多くの新たな経験をし、そしてまた責任を持つことになりました。 1973年以来、私たちはヴッパタール舞踊劇団として、ヴッパタールの舞台に立っています。ここで私は私のダンサーたちと共に長い道のりを歩んできました。毎日が、うそ偽り無く、私たちと私たちをとり囲む世界についての新たな発見の旅でした。それは緊張感に溢れ、時に非常な困難と痛みに満ち、しかしながら幸せな道のりでした。40本近い作品を制作しましたが、その多くは他の国々の都市との共同制作によるものです。 人生の場面場面において、どんな時にも挑戦と危機がありました。そのことについてもお話したいと思っています。とても難しく、もう、どうにもなりそうもないと思われた状況について、また、そのような状況から、私たちの仕事にとって、新しいもの、進むべき道を示すものがどのように生まれたかについて。