京都賞再耕 #09 アリアーヌ・ムヌーシュキン
演劇は素晴らしい人間の芸術である

科学や技術、思想・芸術の分野に大きく貢献した方々に贈られる日本発の国際賞「京都賞」。受賞者の方々は、道を究めるために人一倍の努力を重ね、その業績によって世界の文明、科学、精神の向上のために大いなる貢献をしてきた人たちです。「京都賞再耕──じっくり味わう受賞者のことば」の連載では、これまでの京都賞受賞者へのインタビューを通して、記念講演会で語られた言葉をさらに掘り下げ、独自の哲学や思考プロセス、探求者としての姿勢などに迫りたいと思います。今回は2019年に思想・芸術部門で受賞した、アリアーヌ・ムヌーシュキン氏にお話を伺いました。

 

インタビュー: 西村勇哉(NPO法人ミラツク代表)

執筆: 杉本恭子

翻訳監修: 田ノ口誠悟(静岡文化芸術大学 文化政策学部芸術文化学科講師)

 

アリアーヌ・ムヌーシュキン(Ariane Mnouchkine)
演出家、太陽劇団主宰。1964年にパリ学生演劇協会の仲間と共に太陽劇団を結成、1970年よりパリのヴァンセンヌの森の中にあるカルトゥシュリーを本拠地とする。太陽劇団の冒険的試みは、フランスはもとより外国からもやって来る多くの観客の応援によって60年間継続している。太陽劇団の歩みは、演劇の役割や位置づけ、同時代を描くその能力についての絶え間ない問いかけである。普遍的な視点から政治や人間の大きな問題に取り組むこの姿勢は、東洋と西洋の芸術がない交ぜとなった、壮大な物語様式の探究と共にある。1987年ヨーロッパ演劇賞、2007年ヴェネツィア・ヴィエンナーレ栄誉金獅子賞、2009年国際イプセン賞ほか受賞多数。 さらに詳しく

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すべての演劇は社会と人間について語っている

西村 私たちはロームシアター京都で『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』(以下『金夢島』)』の公演を観てとても感動しました。最初に、観劇して感じた、演劇と社会のつながりについてお尋ねしたいと思います。劇中で現実の話題を扱う方法と同時に、俳優たちが自身の内に感じる感情や、彼ら・彼女らの動きに基礎を置いた集団創作のあり方が、演劇と社会のつながりを自然に生み出しているのではないかと感じました。演劇と社会を分けるのではなく、強くつなげることにはどのような意味があるのでしょうか。

ムヌーシュキン 最初に、これからお答えすることはあくまで私個人の意見であり、他の演出家が同様の意見を持っているなんて思っていないと明確に言っておきたいです。私が何を信じ、どう考えているのかをお話しします。

それはとても幅広い質問なので、お答えするのはなかなか難しいです。なぜ幅広い質問なのか? なぜなら、演劇はその起源から社会とつながっているのです。私の考えでは、演劇は人間についてしか、人間と神との関係、権力との関係、苦しみとの、そして社会、政治との関係についてしか語りません。また演劇には、社会の反映であるものもあれば、社会に何らかの影響を与え政治にコミットしようと強く願う、またはそう望むものもあります。いずれにしても、すべての演劇は社会について語っています。そして、人間は多少なりとも良い社会をつくり出す社会的な動物です。

カルトゥシュリーで稽古中のムヌーシュキン。『インドの部屋』(2016)©Michèle LAURENT

もちろん、俳優もまた社会的存在、社会に生きる人間たちです。太陽劇団のように集団創作を行う場合、俳優たちは恐らく他の市民以上に社会に対する強い感受性を保っているでしょう、彼らは社会を耐え忍び、それを支え、時には社会と戦うのです。俳優たちは、社会の影の部分や隠されていることを、硬いクルミの殻を割るようにして明らかにしなければならないのです。今起きている災難は、ときには100年前に決定されたことの結果であることもありますから。そしてそれは、感情や美、詩によって表現されなければなりません。

現代のように残酷で一触即発の世界でも、私たちが完全に社会の紛争に侵食されるわけではありませんが、それでも私たち演劇人の役割は、そうしたすべてにかたちを与えて、それらを明るみに出すことなのです。

演劇とは最悪の対立のどん底にあっても調和を見出すこと

西村 京都賞受賞時の講演でもイギリスがEUを離脱したブレグジットに触れ、こんなふうに語っておられました。「このような話は、日本で、今日のような晴れの席でするにはふさわしくないでしょう。でも、自分の周りの世界から主に着想を得ている演劇人の女性としては、これはどうしても見過ごすことのできない問題なのです」。あたかもクルミの硬い殻に包まれたような、社会のなかで隠されたことをどのように取り出せるのでしょうか。

ムヌーシュキン たとえば昨日、次の公演に関する劇団の会議があったのですが、大半の時間を割いて、「膨大な歴史的知識を身につける必要があるが、具体的にどう進めるのか」を話し合いました。俳優のなかには、大学を出ていない人やそれほど本を読まない人もいます。かなり難しい本を彼らに読んでもらうにはどうしたらよいのか。録音資料を探そうか。オーディオブックを手に入れようか。演じる前に俳優たちのために行うこういった準備は大変な作業です。これがまず一つ目です。

休憩しながら意見交換、カルトゥシュリーで稽古中の劇団員たち。『マクベス』(2014)©Michèle LAURENT

もうひとつ重要なことは、無知な意見に惑わされないために十分な謙虚さを身につけることです。意見は「呪い」です。なぜなら意見をもつことは、ある意味では、無知を免罪するからです。人は意見をもつと、自分は正しい側にいると思い、どのようにものごとが起きたかを学ぼうとしなくなります。いつ誰がはじめ、なぜそうなったのか。どんなイデオロギーがその時作用していたのか。それらのイデオロギーをどうやって明るみに出し、処分するのか。これらに対する私の具体的な答えは仕事、そして忍耐です。

ある程度の知識を得ると、それをかたちにする難しさに直面します。芸術の問題が現れるのです。私たちは出来事にちょっとした、しかし根本的な変化を与えねばなりません。出来事が演劇的になるように。出来事が意味においても、私たちがそれに与える形や照明、つまり私たちが真実と呼ばれるものに最も相応しく最も近いと心の底から思うメタファーにおいても強く感じ取られるように。

私たちはこのように得た知識を変形させる必要があります。

西村 『金夢島』を観た経験から、知識を余すことなく伝えるのではなく、演劇にすることでこそ伝えられ、また観客に考えさせる力があるのではないかと感じました。

ムヌーシュキン それが演劇という芸術なのです。演劇は、最悪の対立のどん底にさえ調和を見出す芸術です。戦闘や殺戮(さつりく)の不協和音が響くなかでも、感動は正確でなければなりません。舞台上で殺人を伝えるには、ピストルの銃声だけでは不十分です。誰が、なぜ、今、殺人を犯したのか。残酷さは、解放は、栄光はどこにあるのか。演劇という芸術は、そのすべてを観客に感じさせてくれるのです。

想像力は抽象的なものではない

杉本 『金夢島』を観る前に、太陽劇団の俳優、ドゥッチオ・ベルージ=ヴァヌチーニさんによる演技ワークショップを見学しました。ドゥッチオさんは「受け取る」ことについて繰り返し説かれていました。『まずはしっかり受け取ること。相手の話を聞いている時に、「言わなければならないこと」を考えてはいけない』というように。もうひとつ印象に残ったのは「想像力は筋肉である」というフレーズです。彼の言葉を思い返しながらお話を伺っていたのですが、あなたの言う仕事とはしっかり受け取る、つまり知識を吸収することであり、それを表現するために俳優たちは想像力の筋肉を使うのでしょうか。

ムヌーシュキン その通りですね。俳優は舞台に上がる前には頭を使って仕事ができますし、すべきですが、舞台上では頭は使いません。俳優の才能は想像力です。実は、昨日ある名言に出会いました。「信じるためには、想像しなければならない」というのです。私はこんな表現これまで思いつかなかったので、嫉妬すら感じました。「想像力がなければ思いやりは生まれない」とよく言いますが、それにも通じますよね。ここで言う「思いやり」は仏教における慈悲に近い、他人とその苦しみを理解するという意味です。想像力は、社会で生き、創造し、演じるためと同様に、演劇がそうであるように他者を受け止めるために不可欠な、重要な筋肉なのです。

想像力を駆使して集団創作する。カルトゥシュリーで稽古中の劇団員たち。『最後のキャラバン宿(オデュッセイア)』(2003) ©Charles-Henri BRADIER

そして、想像力を鍛えるには実践が必要です。実は今私は車の中にいて、数日間のヴァカンスを過ごす海辺に行く途上なのですが、パリの南端、ポルト・ディヴリーで買い物袋を持った小さな女性を見かけ、孤独について考え始めました。もしかしたら、彼女の家では8人の孫が待っているかもしれません。しかし、買い物袋を持って歩く悲しげな表情、履いている靴から、私はこの女性の孤独を想像しはじめたのです。想像力は引き金になるものではありますが、必ずしも正確ではありません。筋肉のように鍛えなければならないのです。

西村 僕の専門は心理学と人類学で、人の想像力がどのように世界をつくっているかをいつも考えています。世の中を動かすのに必要なのは想像力だと思う一方で、多くの人は、世の中を変えるために技術やアクションなど、目に留まりやすく繰り返し使いやすいものに注目します。どうすれば私たちは、想像力の力を思い出すことができるでしょうか。

ムヌーシュキン 想像力と具体性の間に矛盾はありません。太陽劇団で私たちがよく口にする言葉のひとつに、チェコのアニメーション映画監督イジー・トルンカの「驚異の条件は具体性である」という言葉があります。想像力は決して抽象的ではなく、非常に具体的な感情や行動を通して経験されるものなのです。

夢の宮殿を創りあげて命を吹き込む

西村 シンプルな質問ですが、どうすればもっと多くの人が劇場に足を運んでくれるでしょうか。

ムヌーシュキン 世界中の演劇界が自問自答している問いですね。フセヴォロド・メイエルホリド(ロシアの演出家、1874-1940)は、「劇場に入ると、夢の宮殿に入ったかのように感じられるのでなければならない」と言っていました。これこそ、観客を引き寄せるための原理です。しかし、多くの場合は、劇場は夢の宮殿ではなく、銀行のように禁止事項や制約に満ちた、大きく厳格な機関のようなものです。その建築も多くは権威主義的かつ帝国主義的であり、劇場を使うクリエイターたちが自由に生活したり装飾したり、時代や公演内容によって空間を変化させることを許しません。これでは夢の宮殿どころか権力の宮殿です。

「夢の宮殿」韓国の伝統打楽器サムルノリの巨匠キムドクス氏を迎えた時のカルトゥシュリーの正面(2005年2月)©Michèle LAURENT

それに加えて、夢の宮殿を創り上げ、毎日命を吹き込み、いつも観客を驚かせるのも大変な作業です。パリや東京のような都市では、観客は劇場に到着したとき、地獄のような機械から出てきたばかりのように疲労困憊しています。公演では観客を驚嘆させることが第一ですが、同時に観客を愛情と敬意を持って迎えることが必要です。彼らを安心させる必要があります。「ここは安全なんだ。ここは夢の宮殿なんだ」と感じてはじめて観劇する準備が整うのです。

杉本 観客を迎えるときの愛情と敬意について伺い、ムヌーシュキンさんが今もチケットのもぎりをされていることを思い出しました。改めて、もぎりを続けられている理由を伺いたいです。

ムヌーシュキン もぎりが大好きだからです。劇場に来る観客を見るのが好きなのです。いつも優しい言葉をかけてくれますし、彼らの情熱や作品に対する期待を感じることも大好きです。劇場の扉を開けると観客が待っている、それはすでに奇跡的なことですから、その光景を見る喜びを自分から奪いたくないのです。ただ、もぎりは寒さの中で1時間半も立ち続けることもあってなかなか疲れます。今はもう毎日やっているわけではなく、週末を含めて週3回くらいでしょうか。

アリアーヌ・ムヌーシュキンが太陽劇団の入口でもぎりをしながら観客を迎える。『インドの部屋』(2018年4月)©Michèle LAURENT

私たちは決して人間らしさを放棄してはならない

西村 『金夢島』を観たとき、音楽とともに現れた黒子が楽しげに舞台転換していたのも印象的でした。俳優たちが黒子を楽しんでいることを人間らしいと思ったのです。その人間らしさに出会ったときに驚いたり楽しんだりするのは、普段あまり人間らしさに出会っていないせいかもしれません。太陽劇団に比べて、私たちの社会には人間らしさがない。むしろ人間らしくすると、社会が壊れてしまうのではないかと恐れてさえいます。もっと人間らしくなるほうが、より良い社会で働くことができ、新しいタイプの人間関係を発見できるのではないかと思います。

ムヌーシュキン 確かに私たちの社会は、日本だけでなく欧州、フランスでも人間らしさを失いつつあります。しかし、人間らしさを取り戻すことは決して不可能ではありません。人間らしい社会を取り戻すことはユートピアであり、社会の目標であり、プロジェクトであり、目的でもあります。私たちは決して人間らしさを放棄してはならないのです。

私たちの公演を観て「人間らしさを感じた」と言ってもらえるのは大きな賛辞です。きっと観客もそれを求めているのだと思います。演劇はこの上ない人間の芸術です、それは舞台の上で他の人間たちと向き合う人間たちなのです。それはフィルムでも、仮想現実でも、インターネットでもありません。「だからこそ演劇は不滅であり、私たちから演劇を奪うことはできない」と私はいつも言っています。

劇場の外で経験するかもしれない残忍さは必然ではない、私たちは交流することができる。そして、互いを少しでも愛し尊重しあうことが、ものごとをより簡単に、ある意味ではより生産的にする。以上を観客に示すことも夢の宮殿が守らなければならない約束事の一部なのです。私は、演劇は常に人間性の模範であるべきだと思っています。「指導とは命令することではなく模範を示すこと」だと孫にもよく話しています。社会を変えたいなら、まず自分自身を変えなければなりません。ものごとがどのように変わりうるかを観客に想像させること、それはつまり具体的には、人が劇場に足を運んだときに、人間関係やふるまい、交わし合う美しさなどの面で全てが違っていないといけないということです。

ロームシアター京都で行われた『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』公演の一場面 L’ÎLE D’OR, Théâtre du Soleil ROHM Theatre Kyoto, 4 et 5 novembre 2023 ©Hideya Katsura

人間には実現すべきユートピアが必要である

西村 ユートピアの追求が1960年代から減少し、日本ではその追求はほとんど消えかかっています。演劇は、自分たちが目指すべき暮らしや社会のモデルを提供します。ですから、演劇を観に行くことは大切だと思います。

ムヌーシュキン ユートピアに対する期待が60年代以降に衰退した理由は、一部のユートピアがあまりに酷いかたちで実現され、地獄と化したからでもあります。私は特に、ソ連などによる共産主義の実現に対する凄まじい幻滅が、ユートピア全体の概念を酷いものにしたと思っています。

現在では、実現されたユートピアはファシズムや全体主義でしかないと考える人さえいます。しかし私は、一つのユートピアがこの世の地獄になったからといって、全てのユートピアが必ず地獄になると考えるべきではないと思います。ここでもまた、共産主義が輪郭を取り始め、ロシアで実現した当初から、すぐに地獄へと変貌した理由を、より繊細に理解する必要があります。悲惨なことに、幸福の到来を告げたはずだった二月革命の直後、1917年のうちに地獄ははじまりました。つまり、実現の途中に地獄と化した悲惨なユートピアの事例があり、それは中国、カンボジア、北朝鮮などでも繰り返されました。怪物化したイデオロギーは、すべてのユートピアの価値を下げてしまいました。それでも、人間には実現すべきユートピアが必要ですし、人間は幸福を追求し続けるでしょう。幸福とは他者とともにあるものであり、他者なしにはあり得ないのです。

ロームシアター京都で行われた『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』公演の一場面L’ÎLE D’OR, Théâtre du Soleil ROHM Theatre Kyoto, 4 et 5 novembre 2023 ©Hideya Katsura

杉本 太陽劇団は、19世紀にナポレオン3世が建てたカルトゥシュリー(弾薬庫)に1970年から移り住み 、自分たちの夢に近い場所に変えて活動拠点とし集団制作を行い、また演劇を上演しておられます。まさに演劇のユートピアを創りあげてきたと言えるのではないでしょうか。想像力は具体的なものだというムヌーシュキンさんの言葉は体現されているのだと思います。しかし、太陽劇団がはじまって60年以上の月日が経ち、次の世代へと受け継ぐことも考えられていると思います。太陽劇団をどのように未来に残したいと考えていますか。

ムヌーシュキン シャルル=アンリ・ブラディエが共同ディレクターに就任してすでに15年が経つので、継承は進められています。最も引き継ぐのが難しいのは舞台表現、演出の面などです。私はもうすぐ85歳で、引退したわけではありませんが少しずつ後ろに下がる距離を長くしています。唯一まだ後ろに下がっていないのは演出です。しかし、たとえば今、リチャード・ネルソンという素晴らしいアメリカ人作家が脚本・演出を手掛けた作品『芸術における我らが人生』を劇団の11人の俳優と上演しています。その間に私は、来年末に上演予定の次の公演の準備や構想をはじめることができました。いずれにしても、太陽劇団は継承されていきます。観客が今後も足を運んでくれるのであれば、太陽劇団は期待に応え、喜んでお迎えします。

(インタビューはオンラインにて2023年12月13日に実施しました)

 

* 1970年、太陽劇団が『1789』をミラノのピッコロ座で初演した際に、ジョルジュ・ストレーレル(訳注:ピッコロ座創立者)は誕生して日の浅い太陽劇団を歓迎し、信頼を寄せて支援した。その後、太陽劇団はパリ郊外のヴァンセンヌの森の、隔絶され廃墟と化していたカルトゥシュリー(弾薬貯蔵所)を拠点とする。太陽劇団は、カルトゥシュリーを、劇場という建築物の形をした制度から自分たちを脱出させる場所だと直ちに理解した。フランスの都市の変貌が町における人間の場所、都市における劇場の位置づけを激しく揺さぶっていた時代に、太陽劇団は、劇場施設でなく貯蔵庫を選んだのだった。ジャン・ヴィラールやアントワーヌ・ヴィテーズが夢見た、エリートにも民衆にも等しく親しまれる劇場。太陽劇団は、カルトゥシュリーはこうした劇場を創造する具体的手段になると考えた。1968年以前のこの時期から、目的は民衆との新たな関係を築き、ブルジョワ演劇から離れ質の高い民衆演劇を生み出すことだった。その結果、太陽劇団は1970年代から、所属しているアーティストの数(年間70人以上)、国内外での評判によって、フランスを代表する劇団の一つとなった。アリアーヌ・ムヌーシュキンは「劇団」という概念に確固たるこだわりを持ち、幾つかの基本ルールに基づきその集団の理念を定めている。すなわち、役者や裏方といった区別なく、劇団員全員が同額の給料を受け取り、劇場の日々の運営や公演時の観客出迎えには全員が関わるということである。

 

受賞当時に開かれた記念講演会を下のYouTube動画でご覧いただけます。

 

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〈インタビュアー略歴〉
西村勇哉(にしむら・ゆうや)
NPO法人ミラツク代表理事。大阪大学大学院にて人間科学(Human Science)の修士を取得。セクター、職種、領域を超えたイノベーションプラットフォームの構築と、年間30社程度の大手企業の事業創出支援、研究開発プロジェクト立ち上げの支援、未来構想の設計、未来潮流の探索などに取り組む。 国立研究開発法人理化学研究所未来戦略室 イノベーションデザイナー、大阪大学社会ソリューションイニシアティブ 特任准教授。  NPO法人ミラツクのウェブサイト

〈ライター略歴〉
杉本恭子(すぎもと・きょうこ)
フリーライター。同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻修了。アジール、地域、仏教をテーマに、研究者、企業経営者、僧侶、まちづくりをする人たちへのインタビューに取り組む。『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)著。  writin’room