京都賞再耕 #05 グレアム・ファーカー博士
生態系の一部としての私は「森の古い木」として存在している

科学や技術、思想・芸術の分野に大きく貢献した方々に贈られる日本発の国際賞「京都賞」。受賞者の方々は、道を究めるために人一倍の努力を重ね、その業績によって世界の文明、科学、精神的深化のために大いなる貢献をしてきた人たちです。「京都賞再耕──じっくり味わう受賞者のことば」の連載では、これまでの京都賞受賞者へのインタビューを通して、記念講演会で語られた言葉をさらに掘り下げ、独自の哲学や思考プロセス、探求者の姿勢などに迫りたいと思います。今回は2017年に基礎科学部門で受賞した、グレアム・ファーカー博士にお話を伺いました。

インタビュー: 西村勇哉(NPO法人ミラツク代表)
執筆: 杉本恭子

「京都賞再耕」のこれまでの記事
#01 國武豊喜博士 「抽象化」と「具体化」を往来するなかで突破口が見えてくる
#02 三村髙志博士 「役に立つ」とは、圧倒的多数の人に必要とされて喜ばれること
#03 金出武雄博士 「なぜこの研究をしているのか」に立ち戻る習慣が本質到達への鍵となる
#04 坂東玉三郎丈 言葉にはならない大事なものは、人と人が出会うなかでこそ伝えられる

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グレアム・ファーカー(Graham Farquhar)
植物生理学者。オーストラリア国立大学 特別教授。1973年、オーストラリア国立大学にて博士号取得(生物学)。1980年、植物による光合成の機能モデルを発表。2011年にフンボルト賞、2015年にオーストラリア政府より首相科学賞を受賞。オーストラリア科学アカデミー、米国科学アカデミー、ロンドン王立協会などの会員を務める。 さらに詳しく

研究の背景にある、土に根ざして生きる家族というルーツ

西村 今日のインタビューでは、ファーカー先生のご研究のベースにある考え方やものの見方についてお話を伺いたいと思います。はじめに、簡単な自己紹介をお願いいたします。

ファーカー 私はオーストラリア・タスマニア州のホバートで生まれました。父は、農業技術者として農家のみなさんに新しい科学技術を伝える仕事をしていました。母は、私が生まれるまで小学校の教員をしていました。祖父母は、父方・母方ともに土に根ざした生活をする人たちでした。父方の祖父は鉱山で働きながら、祖母とともに農業をしていました。母方の祖父母は、農業に使うさまざまな機械を所有して他の農家の作業を請け負っていました。

なぜ、はじめに家族のことをみなさんにお伝えするのかというと、農家のみなさんの助けになること、農業に関する分野の役に立ちたいという私の思いの背景には、農業に携わってきた家族のルーツがあると思うからなんです。

ご両親(前列)とご兄弟(後列の右と中)とともに(1987年)

杉本 先生のお父さまもまた、農業に関わる分野の科学者でいらっしゃいます。研究者という道を選ばれるにあたっては、お父さまからの影響もあったのではないでしょうか。

ファーカー 1956年、私が9歳になる頃でしたが、父がオーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO)*1 に就職したため、家族でメルボルンに引っ越しました。1958年には、父が農業教育学を学ぶために、米・ニューヨーク州のコーネル大学に留学して修士号と博士号を取得したときは、私たち一家もアメリカで2年半暮らし、その後はまたメルボルンに戻りました。

14歳のとき、父から「生物物理学という面白い学問が生まれた」と聞いたことがきっかけで、それがいったい何なのかもわからないままに、「生物物理学者になりたい」と思うようになりました。まずは、CSIROを代表する科学者だったラルフ・スラットヤー先生のアドバイスで、物理学を勉強したのちに生物学を学びはじめました

弟と並ぶ13歳のころのファーカー博士(右)(1960年)

1965年にはモナシュ大学に入学し、家族がキャンベラに移ったのにともなって、オーストラリア国立大学の3年生に編入し、物理学と数学を勉強しはじめたのです。1969年には生物物理学を学びはじめクイーンズランド大学が募集していた奨学金に応募し、1500オーストラリアドルの奨学金を得ることができました。この奨学金のおかげで、ある程度自立して生活と研究をすることができました。また、この年にはボリショイ・バレエ*2 の公演を観られたことも幸運でした。これを機に、私はダンスの世界にも出会うことになりました。

芸術と科学は、言葉以外の“言語”で伝えるという共通項がある

西村 もし、私たちが聞き取れるように配慮してゆっくりお話ししてくださっているなら、もう少し速く話していただいても大丈夫です。

ファーカー 農家である私たち家族の伝統として、ゆっくり話すという傾向があります。それに、ゆっくり話すことによって、私の脳がずっと先ではなく少しだけ、一歩先を行くことができるからです。

西村 話すことと思考のスピードの関わりはとても興味深いです。先生はダンスをされていますが、ダンスと思考のリズムにも何か関係があると思われますか?

ファーカー とても面白い問いですね。ダンスには、速く動かなければいけない部分がありますが、私はもともと動きがゆっくりしているんです。とりわけ女性ダンサーと一緒に踊ると遅れてしまうことがあるので、しばしば難しさを感じていました。

ダンスあるいは芸術と科学は補完関係にある、と常々感じていました。両者には似ているところがあります。ひとつにはクリエイティブであること。そして、練習が大切だという共通項です。「天才とは1%のひらめきと99%の汗の結晶だ(Genius is 1% inspiration 99% perspiration)」ということわざがありますが、これは芸術と科学のどちらにも言えることだと思います。また、指導者のあり方としても、バレエにおいて舞台の指揮をとる芸術監督と科学における研究室の主宰の役割には、とても似通ったところがあります。

バレエのステップを踏むファーカー博士(左)(1978年)

バレエにおいて最も優れた先生のなかには、言葉での説明はあまり上手ではないけれども、身体で示して教えることに長けた人もいます。つまり、言葉以外でのコミュニケーションをしているのを感じるのですが、科学においても同じことが言えます。科学においては、数学という言語がよく使われていますが、それもまた言葉以外のコミュニケーションによって説明するということではないかと思うのです。

西村 言葉を使うかどうかではなく、よく伝わる表現にすることがすごく大事なのだと感じました。まさに、ファーカー先生の数理モデルもそうだと思います。多くの人が利用できる表現にすることが、いかに世の中に寄与するのかについて伺いたいです。

ファーカー 多くの人に使いやすいかたちにすることは、まさしく世の中の発展に寄与します。ただ、そこにはある種の緊張を生み出す源がふたつあります。ひとつは、正確であると同時にシンプルなものを書くという、ときに相反する目的を達成しようとすることによる緊張です。

もうひとつは、あまり良いものとは言えませんが、人に影響を与えて評価されようとする欲望のようなものが、緊張を生み出す源としてあります。たとえば、論文自体はとてもシンプルでわかりやすくまとめたにも関わらず、最後にappendixですごく複雑な数学を引用することで「自分はこんなにも知識があり、ここまでやったんだ」という自慢めいたものを入れたくなるんです。そんなものは書かなければいいのに、つい書き加えたくなる欲望みたいなものがあります。

人は、シンプルでわかりやすいものに反応する傾向があります。良い例が人工知能(AI)です。AIは表面的にはシンプルに見えますが、その背後には誰も理解し尽くせないほどの複雑さを秘めています。シンプルなことには、人を欺いてしまうという側面もあるなかで、そのAIを軍事や裁判などの領域に利用していこうとする動きがあるのは、とても恐ろしいことだと思います。

1枚の葉の光合成の数式モデルが内蔵する「簡潔な美しさ」

西村 ファーカー先生が開発した光合成の機能モデルは、植物の光合成への理解を深めただけでなく、地球の気候変動の解明にも応用されています。このように、非常に広い範囲に応用できるようなシンプルさについても伺いたいです。

ファーカー 英語の「simple」と「simplicity」という言葉は意味が異なっていて、simplicityには美が含まれていると思います。たとえば基礎物理の世界では、simplicityをもつ美しい数式に出会うことがあります。

私が考えた数式のなかでは、植物の気孔の水利用に関する二酸化炭素の吸収量が増えることによるプラスの影響(PδA)と、そのかわりに気体が逃げる蒸散の速度が増えてしまうことによるマイナスの影響(NδE)が等しいことを表した「PδA=NδE」はすごく簡潔です。しかもこの数式は、1枚の葉の光合成の機能モデルを表すものであり、林冠(キャノピー)*3 全てを表すことができるのです。私の友人がこの数式をタペストリーにしてくれたのですが、そこにも本当に美しさが表現されていました。

さまざまな植物の気孔

極めてシンプルで短い数式が、想像もつかないほど広がりをもって非常に多くの現象を予測可能にするというのは非常に美しいものです。多くの科学者がとても複雑な数式を扱いながら研究を続けているなかで、私は自らの研究においてこのように美しい数式に出会えたのはとても幸運だったと思います。ここで、私と他の研究者たちが植物の二酸化炭素の吸収に関する理論から数式をつくったことについてお話してもいいですか?

西村 ぜひ、詳しくお話しいただければと思います。

ファーカー 1980年頃、私は高校時代の友人であり、CSIROで小麦の育種にずっと携わっているリチャード・リチャーズと偶然再会しました。彼は、研究者としてより水利用効率の良い遺伝子タイプの小麦を選別する実験を行っており、そのために乾燥させた葉を保存していました。彼は一定の蒸散量に対して異なる植物がどの程度成長するのかを測定していました。私は、水利用効率の違いは葉の炭素同位体の組成に反映されているという理論を構築していました。私たちはその葉を用いて炭素同位体比を測定したのですが、そこで得られたデータはその理論に一致するものだったのです。

私たちの意識のなかで生まれた数式の形に込められたアイデアが、実際の植物で起こっていることと合致し、種を育てて収穫し、葉を燃やして炭素同位体比や水利用効率を測定し、ついには新品種を生み出していくという私たちの活動につながったのです。頭のなかで組み立てた数理モデルが目の前の現実と重なり合った瞬間は、今振り返ってみても非常にマジカルだったと思います。

小麦を手にするファーカー博士(2015年)

正直さには、あらゆる可能性を探り尽くすことが要求される

西村 そのマジカルな瞬間にあった喜びや美しさが、もしもダンスにおける喜びや美しさと関係するとしたら、どういう言葉で表現できるでしょうか。

ファーカー 純粋で(pure)、濁りのない(clean)状態と、わくわくする(exciting)感覚──今まで誰も歩いたことのない道、今まで誰も探索していない場所を歩くという感覚、誰もが体験したことのないことを体験する人間であるという感覚があります。「一番になろう」という競争心をもつという意味では、あまりcleanではないかもしれないのですが。

もしかすると、オリンピックを目指すアスリートが体験することと、私たち科学者が体験していることは似通っているかもしれません。記録を破るためにアスリートが体を鍛えるのと同じように、科学者は最良の結果を得るためにその精神を訓練します。そのために、誰よりも何よりも創造的であること、ごまかしなく正直(honest)であることを大切にしています。

西村 honestであること、cleanであることについて、もう少し詳しく伺いたいです。

ファーカー 次の問いに答える前に、ライターの杉本さんに私から質問があります。おそらくライターという仕事をするなかで、同じような体験をされているのではないかと思うからです。リンゴの皮を剥いて、何も残らないくらいにきれいに剥いていくように、文章を磨き上げていく作業、美しい文章をつくりあげていくプロセスで、同じような体験をされているのではないでしょうか。

杉本 おっしゃる通りだと思います。ただ、文章そのものを磨き上げるというだけではないかもしれません。たとえば、今日はファーカー先生のお話を伺っていますので、先生が何を大切に生きておられるのかという本質をつかまえるのか、読者に対してはいかにシンプルな言葉で伝えていくのかという両方を意識しながらお話を聴き、文章を書こうとしています。

ファーカー ライターの杉本さんが言われたような、必要なエッセンスだけが入っていて、不要なものは何もないというような表現に出会う、そのような文章ができたときの気持ちがおそらくcleanということだと思います。私たちの生活、現実のなかにはいろんな複雑さ、必ずしも必要ではないノイズもたくさん存在しています。こうした不要なものに向ける意識を取り除いたのちに、本題だけを表現することがcleanということだと思います。

西村さんの問いにあった「正直(honest)であること」について、ひとつの例を挙げてお話したいと思います。植物にはひまわりのように、太陽の光を追いかけて葉を動かすものがあります。一方で、あまりにも日光が当たりすぎると植物の水利用に影響があるため、蒸散を防ぐために葉を閉じる植物もあります。私は、植物の気孔を研究するなかで、葉の内部の二酸化炭素が過多になると気孔が閉じるという認識のもとに、「二酸化炭素濃度と葉が動くときの角度には関係がある」と確信して仮説を立てました。

この仮説を実験してくれたのはアメリカの仲間だったのですが、私は「二酸化炭素濃度によって葉の角度が変わる」ことにビール何十本かを賭けました。しかし、その実験結果から、二酸化炭素濃度と葉の角度には直接の関係がないことがわかりました。この現象において、二酸化炭素濃度は中心的な要素ではなかったのです。

「正直であるとは、あらゆる可能性を追求して試して、結果を確認してから伝えること」
とオンライン取材で話すファーカー博士

幸運にも、この仮説は論文にしていませんでした。もし、自分の仮説をきちんと実験せずに論文を発表していたら正直ではありません。つまりhonest であるためには、人の時間を無駄にする前に、まず可能性を試してみてその結果を確認することが求められるのだと思います。

失敗をプロセスの一部と捉える、科学の常識を他分野に広げてほしい

杉本 京都賞受賞時の記念講演会で、ご家族や友人、一緒に研究した仲間、そしてイアン・コーワン先生はじめとした先生方への言及が非常に多いことに心動かされました。ファーカー 先生は生態系の基盤である光合成についてご研究をされてきたわけですが、先生ご自身もまた研究者としての先生や仲間とのつながり、あるいは親しい人たちとのつながりも含めた生態系をとても大切にしてこられたように感じたのです。ご自身が研究をすることを生態系になぞらえたとき、どのように考えてこられたのかをお聞かせください。

ファーカー その観察は正しいと思います。私の家族やこれまで一緒に研究してきた仲間たちは、私に多大な影響を与えてきました。そして、彼らが私の人生にいることは、とても幸運なことだと思っています。

同僚に囲まれるファーカー博士(左)

生態系は、絶え間なくさまざまな脅威にさらされるものです。生命に溢れて力強い生態系として外来種に侵されることなく存在し続けるのは、実のところ常に戦いでもあるわけです。ここにおいて、「外来種とは、本当に好ましくない雑草なのか?」という問いが現れます。もしかしたら、長くずっと生きながらえてきた古い種はもう去るべきであり、新しい種にその場を渡していく必要があるのかもしれません。「変化を必然として受け入れていくべきではないか?」という問いです。

言うまでもありませんが、真実は「外来種を脅威と見る」ことと「変化を必然として受け入れる」ことの間に存在するのだと思います。自分がある生態系の一部であると考えると、やはり同じことが言えるのではないでしょうか。

実際の生活のなかで、私は若い研究者とも年上の研究者とも仕事をしています。それはとても楽しいことであると同時にある種のチャレンジでもあります。生態系には、安定して長く続く生態系もあれば、とてもはかなく変わっていく生態系もあります。自分自身がある生態系に慣れてしまうと、外来種に自分の生態系が侵されることはとても受け入れ難いことであるのも事実です。

オーストラリアの草原地帯に住んでいると、外来種の強い雑草や野生動物の脅威を日々目にします。しかし、たとえば、かつてナンキョクブナ(Nothofagus)*4 などの他の樹木にとって変わったユーカリの中にも、今は絶滅の危機に瀕している種があります。そう考えると、何が絶対的なのかについてはとても言及しづらいものだと思います。ある生態系の一部としての私自身としては、今は森の中に立つ古い木のような気持ちで存在しています。

タスマニアの古い巨木。タスマニアンオーク(Eucalyptus obliqua、左)とタスマニアンペンシルパイン(Athrotaxis cupressoides、右)(photos by Dr. Ross Deans)

杉本 森の中に立つ古い木というのは、どんな木なのでしょうか。

ファーカー オーストラリアの古い木のほとんどはシロアリに侵食されてしまいます。シロアリは根っこの方から入り込んで幹を空洞化させてしまうので、古い木には大雨や強い風によって倒れてしまう脆弱な存在というイメージがあります。でも、大きな木には、強くてしっかりとしているものももちろんあります。私が生まれ育ったタスマニアの古い木は、100メートル以上の高さがあり、何があっても倒れる気がしない、これからもずっとそこに存在し続けるであろうというイメージです。私はこの脆弱さと力強さの両方をイメージしながら「古い木」とお話しました。

杉本 今、おっしゃったような「古い木」であるファーカー先生は、植物をずっと研究してきた科学者として、どんな願いをもっておられますか。

ファーカー これは自戒の念も込めて言うのですが、私たちがもっと正直であり、もっとクリエイティブであれたなら、たぶん私たちはもっとより良い場所に立っていることができたと思います。私たちは、自分たちに代わってメディアに考えさせたり、他者が言うことを鵜呑みにしたりしがちです。今、私たちに必要なのはスローダウンして、テレビで耳にする、雑誌で目にする情報をまずは自分で確かめるというプロセスを経ること。そうすることで、今世界が経験している多くの悲しみを避けられるのではないかと思います。

また、私は政府や大きな組織が期せずして失敗することを、もっと寛大に受け止めるべきではないかと考えています。もちろん、意図的な悪事や違法行為は許すべきではありません。しかし、国や組織のリーダーが国家や世界の課題解決にチャレンジするときには、そのプロセスに失敗はつきものだと思うからです。

私たちは、大きな組織のリーダー、特に政治家が大きなリスクをとろうとして失敗したときに、とても厳しい態度をとりがちです。しかし、科学においては、失敗や過ちは研究のプロセスの一部です。クリエイティブであることと失敗することはセットであるという科学の常識がもつ寛大さを、ほかの分野にも広げていくことが大事ではないかと思っています。

西村 長時間にわたり、インタビューに答えてくださって感謝しています。

ファーカー 知的な問いかけをしてくださったおふたり、そして通訳の方にとても感謝しています。

西村 こちらこそ、今日は本当にありがとうございました。

(インタビューはオンラインにて2021年3月4日に実施しました)

 

*1. オーストラリア連邦科学産業研究機構(CSIRO) オーストラリア最大の総合研究機関。国内と海外あわせて50か所以上の支所があり、研究分野は農業や情報通信、材料、エネルギーなど多岐にわたる。

*2. ボリショイ・バレエ モスクワのボリショイ劇場を本拠地とする、ロシアを代表するバレエ団。チャイコフスキー作曲の『白鳥の湖』を初公演したことでも知られている。

*3. 林冠(キャノピー) 森林において太陽の光が当たる、高い樹木の枝葉が集中して生い茂っている部分。

*4. ナンキョクブナ(Nothofagus オーストラリア、ニュージーランド、パプアニューギニア、南アメリカの一部など、南半球にのみ生育する森林樹木。オーストラリアでは、森林伐採やユーカリなどの植林のために、ナンキョクブナは絶滅の危機に瀕している。

 

受賞当時に開かれた記念講演会を下のYouTube動画でご覧いただけます。

 

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〈インタビュアー略歴〉
西村勇哉(にしむら・ゆうや)
NPO法人ミラツク代表理事。大阪大学大学院にて人間科学(Human Science)の修士を取得。セクター、職種、領域を超えたイノベーションプラットフォームの構築と、年間30社程度の大手企業の事業創出支援、研究開発プロジェクト立ち上げの支援、未来構想の設計、未来潮流の探索などに取り組む。 国立研究開発法人理化学研究所未来戦略室 イノベーションデザイナー、大阪大学社会ソリューションイニシアティブ 特任准教授。  NPO法人ミラツクのウェブサイト

〈ライター略歴〉
杉本恭子(すぎもと・きょうこ)
フリーライター。同志社大学大学院文学研究科新聞学専攻修了。アジール、地域、仏教をテーマに、研究者、企業経営者、僧侶、まちづくりをする人たちへのインタビューに取り組む。『京大的文化事典 自由とカオスの生態系』(フィルムアート社)著。  writin’room