科学技術の営みは
どのようなものか?
自然、人間、実験装置などを等しくアクターと見なし、科学技術をそれらのハイブリッドなネットワークの作動と記述して科学観に新風を吹き込んだ。自然と社会の二元論に基づく「近代」を見直す哲学を展開し、地球環境問題への提言を含む多面的活動は分野を超えた影響を与えてきた。
これまで科学史家は、西洋人が名付けた「科学革命」の英雄版を改訂する術を身に着けてきました。また英雄物語を複雑化する手法をいくつも見出してきました。しかしながら、ヨーロッパの人々が16世紀から18世紀にかけてコスモス(宇宙)の新たな定義や、人間と非人間に対するエージェンシーの新たな分布に対処しなければならなかったというのもまた変わらぬ事実であります。こうしたコスモロジーの転換をヨーロッパの人々がどのように理解したのかが、(多くの但し書きをつけて)「発明発見の時代」と呼ばれた時代になぜ彼らが他者文化の扱い方に対する理解を大きく欠落させていたのかを部分的に説明します。ヨーロッパの人々は当時、コスモスの表象をめぐる転換を乗り越えなければならなかったのです。 さて、いま私たちが生きる時代もそうした時代に類似しています。ただ前回とは違って今回は、無限の宇宙を発見するのでも、繁栄や発展のための資源拡張の可能性を――つまり20世紀のグローバル世界の普遍的駆動力となったものを――見出すのでもありません。むしろ地化学者が「クリティカル・ゾーン」と呼んだ、それ自体制限が多く壊れやすくまた脅かされてもいる地球のある領域を発見するのです。それは地球生命体が何十億年を掛けて変貌させてきた極小領域です。 興味深いのは、「近代」という考え方に慣れ親しんだ西洋人がいま経験している衝撃が、少なくともルネッサンス期に私たちの祖先が耐え忍んだ衝撃よりもずっと大きいことです。とくにそれが、「自然」との間に私たちの祖先が築いた関係だけでなく進歩や繁栄への欲動に至るまでを、その極めて深いレベルに至るまでを大きく変更することだったためです。その上、初期に生じた開発の相対的成功がグローバル化したすべての国家を植民地化し終えたまさにその時点で変更が起きました。そうした状況はしばしば「エコロジー」問題として描かれ、また経済的問題、社会的問題との比較から、かなり周辺的な問題と位置づけられてきました。それを本講演では、コスモロジーの転換と定義すべきだと主張します。また転換に耐えるために、科学的能力、法律的能力、芸術的能力、宗教的能力のすべてを混合できるのでなければならないと論じます。 (訳:川村久美子)
それはなんとも不幸なことです。落下する物体という特権的対象物について科学者が話をするとき、またそうした対象をどこからでもない視点から眺める科学について話をするとき、科学者自身はどこにも存在しないことになってしまうからです。さらにそれは、私たちが新型コロナウイルスの出現に驚愕するという現象の一因にもなっています。
※ プロフィールは受賞時のものです